2013年2月13日(水) 【涙の連鎖を断つ】

 さすがに、強行日程に無理があり、疲れが出ている本日は、南野育成園の理事会。

 女子小規模グループホームの建築が進んでいますが、児童虐待など子ども達を取り巻く様々な社会の問題が、児童養護施設に凝縮されるようです。
 涙の連鎖をどうやったら切ることができるでしょう。

 特に、職員の方々は、基本的に、住み込みであり、課題も多く、現場の状況は、本当に厳しいです。おそらく、児童養護施設の昔の姿やあるべき理想の姿と、今の現実のギャップは、かなり激しいと思います。

 思うに、我が家も、陶器屋のあとは、昼夜保育園をしていたのですが、多分、私達の世代ぐらいから、保護者が変わってしまったように思います。
 もちろん、高度成長期の過程や結果として、家族のあり方、ライフスタイルが変わったのでしょうが、つまりは、自己への我慢と他者への寛容が、無くなってしまったような気がしてなりません。それをもって、欲求に素直と言えばそれまでですが、誰もが、もっと懸命に、誰かのために生きていたのではないのか・・・・そんな気がします。

 なにか己の自己実現のために、政治を考える人も、多くなってきました。

 もっとも、経済格差や発達障がいなど、かなり根が深いです。ただ、どこかで、悲しい連鎖を断ち切らないと・・・。
 やはり、キーは、我々の世代になると思います。


 それにしても、子どもには、選択の余地がなく、子どもに、罪はありません。どこで、、どのように生まれ、どのように育てられるかは、抗いようもない宿命のようなものだと思います。

 これは、我が家が、家業を廃業して、昼夜保育園を始めた中学二年生の頃から、私自身、強く感じていることです。

 つまりは、社会の歪みや大人の都合は、最も弱い子ども達が、背負いこむことになる。これで良いのか?なんとかならないのか?というのが、私の政治的な元体験です。

 ただ、当時は、多くの親は親として、懸命に生きていた、もがいていた、そういった最後の最後に信じられるものは、あったように思います。あるいは、愛情は、あった。

 だからこそ、抗えない宿命の中でも、天命を感じ、使命を果たせば、運命は、変えることができる、そう信じることもできました。
 しかし、バブルの頃から、端的に言えば、我々の世代が、親になる頃から、その前提すら、怪しくなったように思います。もはや、子ども達が、徹底的に痛んでいます。

 いわば忍耐と寛容が無くなり、弱いものは、決定的に弱いものになってしまう。

 本来、政治をすべき者は、愛なき時代に、そうした神様のいたずらを修正すべき視点に立つべきだと思います。ある意味で、強いものをより強くするのは、簡単なことだと思いますが、強いものを引きずり下ろすという意味ではなく、弱いものを弱いままでいさせないようにする、それも、政治の役割ではないでしょうか。

 松山千春=『私の明日には』
  http://www.youtube.com/watch?v=-6YiOZOOeX0

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