2011年5月11日(水) 【ある雨の日の物語】

 雨の一日です。相変わらず、自己嫌悪になる肉離れでありますが、雨が降ると古傷が痛んで・・・などと言いそうな予感がします。
 県北の方の大雨が気になりますが、この時期の雨は、私は、嫌いではありません。


 今朝も、朝起き会からスタート。やはり、連日となると、かなり体力的に厳しいものがあります。
 その後、水曜日恒例の自民党県連遊説局の街頭演説は、岡山駅西口で。遊説局の演説で雨に降られるのは、本当に珍しく、この4年間でも、せいぜい5回程度のような気がします。





 そこから、もともと派遣施設であった「しろちか」スタートの春の交通安全県民運動推進大会。開会式のみ出席させて頂き、約1kmになる表町商店街の啓発パレードは、失礼させて頂きました。


 ところで、監査委員に指名ということになると、議場で、略歴が配られたりしますが、その基礎資料の確認がありました。
 実は、私には、平成元年早稲田大学政治経済学部卒業から、平成4年11月の岡山リビング新聞社就職まで、空白の期間があります。

 ちょうどバブルからバブル崩壊の時期と重なりますが、25歳前後のこの時間が飛んでいます。いわゆる司法試験浪人の時期で、私の人生の中でも、最もきつい時期です。

 思春期に家業が自主廃業した状況の中で、1浪した後、そこから死ぬ物狂いで勉強して、親の期待通りの一流大学に入り、さらに、弁護士になることが、目標と考えていた時期です。




 それが本当に私自身の夢だったのかと思うと、少し怪しいものがあります。

 今から思うと、完全にめげていたように思います。そこまでの絶望感や孤独感は、その後は、幸い経験していませんし、少なくとも、そこまで本当に何も無いと感じるという事はないですから。


 この頃の後半は、1月に地場の一流企業に就職した親友が結婚して、その2月から新聞配達を1年8ヶ月続けた時期とかぶります。仲間や時代から完全に置いていかれる感じ・・・。自分は全く無価値で、死んでも良いと思っていました。

 何も見えなくなっていた時期に、当時野田屋町にあった讀賣新聞の配達所の配達員募集のポスターに、扉を開いて、「お金を払っても良いから、新聞配達をさせて下さい。このままじゃ、駄目になるんです。」と言ったのが、人生が変わっていくきっかけでした。
 そこに、バイタリティーの塊のような店長の金田さんが、おられました。

 原付免許だけは当時持っていたので、その夕方に、岡ビル遊園地の周りをぐるぐると回りながら、スーパーカブの乗り方を指導して下さったのも、今は亡き店長の金田さんです。思えば、当時40歳ぐらいで、ご主人を亡くされ、2人のお子さんを女でひとつで育てておられました。

 彼女が、私にとっては、社会を教えてくださった最初の社会人でした。配達所で出会う方は、本当に刺激的でした。一方で、拡張と集金は、やっぱりできませんでした。

 翌朝午前2時半から、1週間ほど、金田さんについて回ってもらって、そこから、1年8ヶ月、毎朝3時40分起きで、約250部、スーパーカブで、讀賣新聞を配りました。
 私の配達エリアは、いわゆる弘西学区と南方学区でした。


 救援に入って、正月の配達も、3回ですがしましたし、1年間の季節の移り変わりは、バイクのエンジンのにおいや、ぬくもりとともに、今も体が覚えています。

 本当に辛い梅雨、夏の朝に一晩中蛍光灯の周りを飛んで廊下に落ちたセミを蹴飛ばせは、たいがいは生き返ること、夏から秋の虫の声、秋から冬のオリオン座の美しさ、体が火照る冬の暖かさ、叫びたくなるような春の朝日の美しさ・・・。生かされているということ・・・。


 今週の連日の朝起き会のあと、この数日の雨、思い出すこと、体が覚えていることがあります。

 バイクで転倒して、水溜りの中に、新聞をばら撒けて、びしょびしょにしてしまい、泣きながらそれを拾った朝のことです。南方のその場所も、はっきり覚えています。こんな雨の日の朝です。

 ただ、そのとき、自分の中で、コツンと音がしたこと。「あ、ここがスタートだ。」と、それが自分で分かったこと。そして、いつでも、ここに戻ることならできると感じたこと。
 私の原点は、そこにあります。こんな雨の日です。

 新聞配達は、誰にも感謝される尊い仕事です。そして、多分、誰もが金田さんのように、守るべきものがあり、夢があり、頑張っておられるのです。
 どんな仕事も、そうです。
 ・・・政治が応えているだろうか・・・・・???


 時々、金田さんに会いたくたくなります。リビング岡山の頃、秘書時代、しばしば悩んで、金田さんに相談に行くと、いつも答えは決まっていました。「あまいわ、佐藤さん!新聞配られぇ!」。
 で、本当に、何度配らせて貰ったか・・・。それを言ってくださる方は、亡くなって、もういません。

 金田さんは、こんな肉離れぐらいなら、新聞を配られるような気がします。
 金田さんや、あの頃の私が、今の私をどう評価するだろう・・・。・・・・「新聞配れ!」だろうなぁ・・・。


 新聞配達をしていた頃の写真は、一枚しか残っていません。ホームページの片隅に載っています。
 http://satoshin.jp/album/images/1998.jpg


 当時聞いていた オフコース=『思いのままに』 http://www.youtube.com/watch?v=xy283-TsP8Y

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