2008年3月30日(日)
【花冷えに、闘うべき相手とは?】

 雨の中、朝から吉備高原都市に行きましたが、なにか今日は、バイオリズムが悪いというか、参加希望していた会合が、よく分からなかったり、中止やら駐車場がないやら、それでも、ファジアーノの4連勝が救いでした。

 「春に三日の晴れなし」なぞと申しますが、花冷えの雨。そう言えば、街頭演説の日以外は、あれだけ熱心に観てきた『ちりとてちん』の最終回を観ませんでした。さびしがりやの私は、最後というものが嫌というのもあります。
 しかし、明日の朝からは、自由!!もっとも、街宣ですが。


 さて、『いつまでもデブと思うなよ』を読み、いわゆる「レコーディング・ダイエット」を始めて、やっと20日。それでも良い感じです。
 著者の性格と私の性格が、非常に近しいものを感じ、また、知的なゲームというのが、よろしいかと思います。

 そもそも、几帳面といわれるA型の突然変異の私も、「こころ」を続けているのは、考えようによれば、地道。
 また、ご存知の方は、ご存知ですが、私はシステム手帳を持たず、大学ノート1冊が、1ヶ月の予定帳および記録帳(なくすと恐ろしいですが、それは、どんな形態の手帳でも同じ。)であり、そこに、大まかな摂取カロリーを記録することは、非常に容易いわけです。


 実は、こうしたレコーディングを会社員の営業日報以外に続けたのは、市内の図書館に通っていた宅浪の浪人時代。
 私は、これを「良い子ちゃんノート」と読んでいましたが、予定を立てても、実行しないという、のび太な性格は、よくわかっていたので、トイレに立って机を離れた時間まで含めて、やったことだけ記録しました。

 本当に正味の勉強時間が、一日10時間を切れば、負け。越えれば勝ち。通常は、11〜2時間で、週に1回は、わざと大敗をし、200日間。いわゆる偏差値を20上げた経験があります。生涯で最も勉強したのは、せいぜいその200日です。私立文系だから、これで済んだのでしょう。

 摂取カロリーに基準を設けて、勝ち負けを決めるというのは、それに近く、200日やって、勝ち続ければ、結果は出るというのは、体験から確信が持てます。あと10倍!

 問題は、その後、大学に入って、一挙に学力が低下したように、リバウンドです。人生前半は、デブで過ごしましたが、後半の良き習慣になるかどうか・・・・。セカンドシーズンというのは、こういうことも含めています。


 ところで、このレコーディングという発想ですが、ある種の恐さを感じています。つまりは、切れる、シャープと言われる、いわゆる偏差値エリートって、常にこういう発想をしているのではないか?ということです。
 どこの世界にも、そういう人がいますが、生涯、そうあり続けるなら、生涯、そういう生き方をすることになります。

 端的に言えば、目的達成のための最短距離を選び、それ以外は、切り捨てるということです。少なくとも、私は、あの200日間は、機械になり、最短距離を模索しました。そして、無駄と感ずるものを極力廃して、目的達成のために、弛緩を含めて、常に利用・活用を念頭に置きました。

 よほどの天才でなければ、私立難関文系で、2000時間。国立最難関で、5000時間の勉強時間が必要ではないかと考えておりますが、あれこれと迷っているようでは、これだけの時間は確保できませんし、それだけの環境をつくっていく必要があります。

 そのためには、何かを、あるいは、誰かを犠牲にせざるを得ない、時として、切り捨てることも必要になります。
 何かや誰かがいるからできるのであって、自分が特別な人間だから、選ばれたり、特に許されているわけではないのです。


 問題は、そこを自覚できるかどうかに尽きます。換言すれば、感謝かもしれません。もっと言えば、愛です。

 もしも、それが、自覚できなければ、神に選ばれし、特異なる尊大な人間が、常に高みから、特異なことをすることになります。

 能力的にも、状況的にも、やろうと思ってもできない人がいる、やろうとすら思えない人もいる、いろんな人がいる、いろんな人生がある、世の中はどうしようもないこともある、それに、共感し、共鳴し、あるいは、赦し許され、認め合い・・・たかが人間、されど人間・・・そう思えるかどうかは、でも、やっぱり、経験なのです。

 もしも、政治の中枢に立つものが、政治や選挙を受験対策と同じものと考えたら、市民・県民・国民のためにという言葉は、単なるテクニカルワードで、彼にとっては、意味がない言葉になります。

 有権者は、得点するように、得票するための手段であり、一人一人の人生に対する畏敬の念なんて本当はないのかもしれません。「あなた」ほど偉い人間は、本当はいないと思っているのですから、内心は、他人を心底、馬鹿にしているのかもしれないのです。

 いったい本当は誰のための政治なのか?誰の味方なのか?


 人は誰しも、その人なりの事情を抱えながら生きています。その苦しみを人に、いわんや全くの赤の他人に、転嫁することは、してはいけないし、そうすれば、あくまで個人の責めであり、ましてや、人を殺めたり、傷つければ、結果として己に返ってきて、抜本的な解決になるどこか、事態は、劇的に悪化するものでしょう。なによりも、自暴自棄が、完全な第三者を壊して良いはずがありません。

 それでも、家庭の事情で進学を諦めざるを得ないという状況は、だからと言って、その罪を決して許すものではありませんが、どこか引っかかるものがあるのも事実で、なにか手立てはなかったのか?社会が政治が悪いのか?と思うにつけても、本当に防げなかったのか?誰もを救えなかったのか?と、悔しさが、込み上げてきます。


 ともあれ、昨今の政治状況は、全く庶民生活と関係ない感覚での市民・県民・国民不在の政争に過ぎないようにも思えます。
 誰が勝ち残ったり、生き残ったりするために、永田町や霞ヶ関は頑張っているのだろうか?と遠い世界のように思えるのはなぜなのでしょう?

 地方議員は、何と闘うべきでしょうか・・・。

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