2006年9月24日(日) 【1位以上の4位】

本日は、地元中央小学校の体育祭で、子ども達の元気な姿を見させて頂きました。

 とにもかくにも、小学生時代のリレーで、肥満児の私がいるばかりに、クラスが負けるので、絶好の「抜かれ場所」である運動場のコーナーを見るのは、今でも、物凄く嫌ですし、できれば、運動会というものには、実は参加したくないというトラウマと戦いながら、この時期を過ごしております。

 運動会が雨が降って中止になることを祈ってばかりいた子どもの頃の想念が、こういう形で報いになるとは、あなおそろしや、おそろしや。


 ところで、特別支援教育ということが言われていますが、特にハンディがある子ども達が多く通う中央小学校では、敢えて子ども達は、ハンディがあろうとも、車椅子のまま、杖のまま、そのまま選手として、リレーに参加していました。
 これは、保護者も、生徒も、同じ思いだそうです。

 昨日のある中学校の体育祭でも、車椅子の部の選手が、オープン競技の部対抗リレーに出場していましたが、こちらは、まさに、得点種目。

 障害のある子ども達は、自分が選手で出ることで、確実に、引き離されることが分かっていての出場に、ある種のコンプレックスを感じているのではないか?あるいは、他の生徒達には、なにかかわいそうという意識、あるいは、助ける自分が良い子であるというような意識が働くのではないか?と、当初は感じていましたが、どうも見ているうちに、そのいずれも違うということが、分かってきました。

 そのうち、涙が込み上げてきて、どうしようもありませんでした。


 子ども達は、大人などを遙かに超えた部分で、正々堂々と現実を受け止め、それに立ち向かっていく力があるし、何よりも、精一杯やれば、もうそれで良いんだよ、それをお互いに認めることができるんだよ・・・・頭をがつんとやられたような気持ちでした。

 いったい、順位などに何の意味があるのか?何を見ているの?

 足が速ければ1位になるのは当たり前、足が遅ければ、ビリになるのは当たり前。才能があり、適当にやっての1位よりも、どうしようもないけれど、とことん頑張っての4位の方が、価値があるということもあるのです。

 順位をつけず、皆1位にするという発想よりも、順位はつくけれども、「個性」を大切にして、自分の中で精一杯頑張ることが遙かに大切なんだ、運動会というのは、そういうものであったか。

 そう言えるとしたら、それが当たり前と思うなら、今の子ども達は、私達が子どもの頃よりも、もっと優しく、なにより、強いように思えました。


 あるいは、ハンディがある子ども達が、いつか例えば、養護学校に行くことがあっても、普通学級で頑張った事が確かな自信になり、逆に、多くの子ども達にとっては、社会に出て、また、ハンディを抱えた人に会ったときに、あの頃の友だちを思い出して、お互いに認め合い、簡単に仲間になることができる、そう信じたいものです。

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