2006年4月13日(木) 【愛している態度とは】

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 本日これより日帰り上京で、気がつけば今年初めての飛行機。三重県議会中心の議会改革勉強会に参加し、未明に帰岡致します。気になるのは、昨日示された教育基本法改正原案。連立政権ゆえに、概ねそうなのかなとも思うのですが、幾分議論が必要なように思います。
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 昨今の青少年の心の荒廃を生んだ大人達の心の荒廃を思うにつけ、私は教育基本法は早急に改正すべきであるという立場ではありますが、正直なところ、内容は良いのですが、「愛国心」という言葉自体については、法律に規定するには、いささかの抵抗は感じてはおりました。
 むしろ言葉としては、「祖国愛」が相応しいと思っておりました。これは、世代的なものもあると思います。

 「祖国愛」は、「郷土愛」、「地域愛」、「家族愛」として並んで語られるべきものであり、「愛国心」と「祖国愛」は、命の起源として、自然な感情の発露として醸成されるという点で、やや異なるように思っています。ただこのあたり、ニュアンスは、微妙で、私の国語感覚が狂っているのかもしれません。

 いずれにせよ、なにか、私自身、学生時代に、伊勢神宮に生まれて初めて参拝したときに感じたように、じわっと魂の根幹に触れ、自然に涙が出るような気持ちが、祖国愛、郷土愛、地域愛、家族愛であり、それがあるから、同じように感じるだろう人々が集まる世界を世界の人々を尊重し愛することができるのではないかなと思います。

 動物学的な「自己愛」だけが強調され、「私」ありて「公」なき国になっていました。「祖国愛」「郷土愛」「地域愛」「家族愛」があるからこその人間です。
 本当に自由に生きたければ、無人島に行けばよいのであり、およそ人間社会に暮らし、誰のお世話にもならないのは土台無理な話です。必ず誰かに助けられています。逆に、助けなくてはいけないという相互扶助の精神で、順送りで、人間の世の中は成り立っています。どうせ個人としては死ぬんだからと、好き勝手されては、世の中成り立ちません。
 敢えて言えば、誰もが愛され、赦されています。

 統治機構ではなく、故郷の山河を、ともに暮らす人々を、愛する気持ちを持って貰いたい、大切にして欲しい、培われてきた歴史や伝統、先人達に感謝し、それをしっかり受け継ぎながら、自分ができることをしっかりとして欲しい、と思うのは当然のことです。

 教育が、自分を、他者を愛する気持ち、すなわち「愛」を育てること、「愛」で、起動し、喜働することを教えることでなくてなんなのでしょうか?


 この点、与党合意案は、まぁそうなのかな、とは思うのですが、気になるのは、むしろ、「・・・する態度を養うこと」の「態度」です。「態度」は、法律用語でしょうか?内心の自由に踏み込むとしても、まだ「こころ」の方が良いのでは?その方が、より深いと思うのですが・・・。

 私は妻を心で愛していますが、「態度」で示しているかは知りません。それが愛している「態度」かどうかは、誰が決めるのでしょうか?要は、「表現せよ」ということです。そしてそれが誰かに認められないと、「態度」にはなりません。
 「我が国と郷土を愛する態度」「国際社会の平和と発展に寄与する態度」とは、どういうことを指すのか?この態度は、誰が決めて、どう表現するのか。

 妻に、「愛しているよ」と一日3回言えば、愛しているということを認めて貰えるのか。やはり、4回だろうか。
 私は、「その態度は何だ!」と先生に張りまわされた事がありますが、どの態度であったのか、いまだに分かりません。もちろん、「こころ」は、「態度」に現れますが、全てではなく、「態度」を養うことは、かえって非常に中途半端なように思います。

 まず型からと言えば、そうですが、学習指導要領は、どうするのか。やはり、「態度訓練」は必須でしょう。ただどんな態度なのか。やはり、「こころ」ではないのかなぁ・・・。


 ともあれ、教育基本法改正原案については、延長しようとも、真剣に徹底的に議論すべきことで、会期末にあわせて、早急に絶対に答を出すというやり方は避けて頂きたいものです。


 自民党議員なのに、その態度は何だ!!と言われそうですが・・・。

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