2005年10月31日(月) 【ひまわりの種】

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 内閣改造を少し遠く感じながら、地元議員として出席予定だった特別委員会県内調査をキャンセルして、秘書の大先輩の葬儀に参列させて頂きました。私が企画していた「フリーマーケット in OKUDA」のある日曜日に、当番になられることが多かったので、事務所の2階から、かき氷を食べながら、大勢来られた出店や、お客さんを眺めて、いろんなお話をしたっけなぁ・・・。
 「こころ そのー(マイナス)2000」の時代の様々な出来事を思い出し、いつか自分が議員になることなんて具体的に考えられなかったあの頃にも、『薔薇のつぼみ』が確かにあったんだなぁ、と、懐かしく、切なく、ありがたく思いました。
 激動の政治状況に、最前線で一番振り回されているのが、おそらく秘書という名の影働きの仲間達でしょう。彼らの時代遅れのような滅私奉公の思い、不安、心に秘める「あすなろの木」のような思いを本当に尊く思います。
 議員としての私は、市民・県民の代表であるけれど、秘書の思いの代表でもあるのです。だから、私は、いろんなことに、負けられないのです。
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 通夜や葬式の間、いろんなことを思い出しました。
「こころー(マイナス)2000」は、最近珍しい四方山話・・・。
激しく長いです。お赦し下さい。

               【ひまわりの種】

 ちょうど季節は、この頃でした。秘書の試験は、面接とレポート。レポートの課題は、無党派対策・女性対策でした。私は、選挙対応の事務所の駐車場が、あまりにも広いので、当時、走りであったフリーマーケットをしてはどうでしょう?と提案させて頂きました。
 これは、僅か1年ですが、岡山リビング新聞社営業部に勤務させて頂いた感覚によるものでした。秘書の仕事は、ある意味、広告代理業に非常に似ています。

 どちらかと言うと自民党的ではないような新人の提案にも、代議士は、即座に「やってみぃ!」ということでしたが、あまりに突拍子がなかったので、事務所の理解が得られず、仕方がないので、中学・高校時代からの友人などスタッフは寄せ集めで、翌春から実施。
 最初は、へぼな営業マンとしてお世話になった『リビング岡山』に、数回自腹で広告費を出して、告知しました。2、3回は、当然、赤字でした。

 ビラ配り、街宣、ともかく試行錯誤の連続でしたが、どうにか定着し、『フリーマーケット in OKUDA』は、結局3月から11月の隔月で、25回も続きました。
 ただ、このイベントの致命的な欠陥は、場所を貸して下さっている代議士が来られるわけがないと、お客の誰もが思っていたので、代議士が来られたら皆驚いて、近寄っていかないということでした。今なら、かなり状況が違うと思いますが。


 それでも動員せずとも、選挙本番の出陣式や事務所開き以上に人が来るし、内緒ですが、1区画1000円のショバ代で、収益まで上がるという企画で、なにか、変わった奴がいると、狭い業界で、私が初めて注目された事業でした。

 さらに、代議士が乗られていない時に、代議士の車をしばしば破壊する(語ることができない極めつけもあるのですが)という運転技術も、業界から非常に低く評価されていました。今から思うと、よく私を許して下さったものだなぁ・・・。


 そう言えば、その頃、「日報で見ると、君は、任意団体ばかりに出入りしているけれども、こういうところが票になるんかえ?」という代議士の問いに、「いや、票になるかどうかさっぱり分かりませんが、こういうところに、自分の秘書を出入りさせるなんて、代議士って偉いなぁ、と皆、言ってます。」と、平気で答えていました。「ほんまかや〜?」
 当時そういった言葉はありませんでしたが、それは言うまでもなく、現在のNPOであり、NGOです。


 あぁ、思い出せばきりがありません。阪神大震災の緊急救援、スリランカに古靴を持っていった話、沖縄のツアー参加、東京出張、永田町勤務、あげくは、帰って来なくて良いと送り出されたイラン出張。そう言えば、当時の代議士は、今の私と同じぐらいの年齢でした。

 いろんな時、亡くなった松本さんが、事務長として、たいがい笑って、そこにおられました。そう言えば、松本さんに怒られたことはなかったなぁ。
 あ〜、それにしても、ムチャクチャな秘書だったなぁ、僕って。



 隔月のフリーマーケットの運営に少し飽いていたその日、だだっ広い事務所の駐車場が、あまりに殺風景なので、「そうだ、ひまわりを植えよう!!」と、松本事務長に相談することなく、勝手に決めました。
 ソフィア・ローレンが出てくるようなひまわり畑になったら、30号を行く車も、さぞかし喜ぶことだろう!!

 ということで、さっそくホームセンターで、ハムスターの餌の「ひまわりの種」の特大サイズを買いました。まさか燻ってはいないだろうが、餌が、生えるものかどうか??そんなことは、分かりませんでしたが、とりあえず、そこら中に撒くことにしました。


 なにしろ、ほとんど砂利で、砂は僅かでしたし、わざわざ土を掘って種を植えるような繊細さは持ち合わせていないので、放り投げるようにして、花咲じじいのように、御陽気な鼻歌交じりに、撒き散らかしました。

 しばらくして、アスファルトの上に数羽の鳩がいたので、嫌がらせに砂利を蹴散らかした時、はっとして振り返ると、なんとそこには、鳩とカラスの大群!権兵衛が種撒きゃ、カラスがほじくる状態に!!ソフィアローレンが、ヒッチコックに!!
 思わぬ僥倖に酔いしれた鳥達が、それはそれは嬉しそうに、思い切り、砂利の中のひまわりの種を次から次に啄ばんでいました。


 あまりの風景に一瞬固まりましたが、それでもせっかく買った、ひまわりの種。もとはと言えば、ハムスターの餌の数奇な運命をこれ以上弄ぶのも気が引けて、やはり、餌ではなく、種として生涯を全うさせてやりたいと、今や、公園にいる、家族よりも鳥に好かれる鳩じじいとなって、しかし、媚びることなく、鳩やカラスにぶつけるように幸福の種を撒き続けました。

 結果として、種は全滅だろうが、今日の鳥達は、宝くじに当たったようなラッキーだったな、それで良いじゃないか、願わくば、どうせ砂利の中で枯れるくらいなら、鳥に全部食ってもらいたいものだな、と自分に言い聞かせ、遠大な作業を終えました。
 あ、よく考えたら、水をやる予定もなかったな。


 夢が潰えて、それから数ヶ月。ひまわりの種のことなどすっかり忘れていた夏の終わり。ふと気付くと、フリーマーケットの片づけで、事務所の裏の当時あった焼却炉の横の砂利の中に、黄色い固まりが。
 見ると、一本だけ、大きなひまわりが咲いていました。

 しかし、背の高さは、30cm、それでも、直径も20cmという、今まで見たことのないような、それはそれは不細工なひまわりでした。思わず、「なんで、咲いとるんじゃ!!」と、感動と言うより、呆れた声を上げました。
 「どんな状況でも、咲く奴は、咲くんじゃい!!」と勝ち誇っているような、ひまわりの花。
 ・・お前、ハムスターの餌じゃなかったんかい・・・・。


 「こころ」がない時代ゆえ、それは、何年の何月何日のことか分かりません。
 ただ、あの種のように、どこに撒かれるかわからないような、どうしようもない宿命を背負い、予測不能な運命と戦いながらも、しかし、言い訳をせず、天命を信じ、使命を果たす、あの物言わぬひまわりの花の力強さを持とう、生き抜こう、と、心に誓った、そんな夏の日が、あの頃にありました。


 ただ、しかし、今になって、つらつら考えるに、人間という種は、自力では、咲けないのだなと思います。
 考えてみれば、あのひまわりの種を、花を、いつも太陽は、照らしていたのだから。

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