2004年3月18日(木) 【親父がくれた時間】

 昨日の亡父の葬儀に際しましては、ご多用中にも関わりませず、本当に多くの方に、ご会葬頂きまして誠にありがとうございました。

 父も、びっくりして、思わず生き返ってしまうぐらいの方々に送って頂き、本人も、さぞかし、喜んでいることと思います。
 三人愚息の一人として、親孝行したい時には、親はなし、ではありますが、皆様のお力を頂き、送り出してやれたことを心から感謝御礼申し上げます。

 とりわけ、受けつけのお手伝いを頂いたり、立礼をして頂いたり、消防団の皆様には、送りまでして頂いて、何から何まで、皆様に支えて頂いたことを重ねて御礼申し上げます。

 とは言うものの、混雑に取り紛れまして何かと不行き届きがありましたことを心からお詫び申し上げます。



 それにしても、ネクタイがグジュグジュになるほど泣いたにもかかわらず、今、やらなくてはいけないことが、あまりに多くありすぎて、父がいなくなったという実感が沸きません。

 むしろ、通夜で真夜中に泣き叫んでいた母が心配なのですが、全てが父にまつわる出来事ばかりで、しかも、写真に向かって、「しょうがねぇなぁ、何考えとったんじゃ?」という事態が、数多く発生しているため、肝心の本人がいなくても、皆、懐かしんで悲しむ間がないという不思議な精神状態です。

 かえって幾分ハイなのかもしれません。



 今回、気付いたのですが、佐藤家の伝統は、悲壮感の中に、必ずお笑いが入るということで、どうも、悲しみや苦しみに対して、真摯になればなるほど、非常に滑稽になり、しまいには、笑い出してしまう傾向があるようです。
 「その時、僕が微笑んでいたとしても、心は涙を流しているかもしれない・・・・」(オフコース・心のままに)



 さて、
 父が脳梗塞で倒れたのは、議会休会日の先週の月曜日、3月8日の昼過ぎで、たまたま事務所にいた私も、救急車で、川崎病院に運びました。
 長嶋茂雄氏が、軽度なら、父は、その逆でした。

 父が、最初に倒れたのは、私が、最初の選挙に出馬する前年の11月で、その時はその時で、非常にたいへんだったのですが、それからずっと人工透析を受けていました。
 脳梗塞は、人工透析で血管が弱っていたことと、心痛によるものだと思います。

 それからずっと危篤状態が続き、丁度1週間経った今週の月曜日、なにかあっけなく逝ってしまいました。

 むくみのピークを越えて、リハビリの話ができると信じていたのですが、結局、意識が完全に戻ることがないまま、実にかわいらしい子供に返り、永久の別れになりました。

 倒れる日までは、自転車で、透析に通っていて、なにかもう、「あぁ、おもしろかった」というような最期の顔です。



 なにしろ、父は、親父は、平和町一の極楽とんぼで、総領息子のなんとかで、なにしろ外面が良く、若い頃には、豪快に好き放題遊びまわり、息子としては、本当に、ろくでもない思い出が、多くあります。

 間違いなく、一見、子煩悩な方ではなかったため、その分、思春期以降の息子達への対応に困り、愛情の表現が、ちぐはぐになるため、文字通り、父子の衝突を繰り返しておりました。

 商売が駄目になった後も、4人兄弟の長男のような行動が多かったため、よくもまぁ、母が支えたものだと、つくづく思うのですが、幾分私も大人になると、当時の親父の悲しみも、少しは、理解できるようになりました。
 それにしてもなぁ・・・と、思えるフシも多いですが。

 ただ、一つ不可解なのは、どうして、母は、こんな親父をあそこまで愛することができるのだろうか?ということで、それは今も、かなりの不思議です。



 親父が倒れていた1週間、正確には今もですが、我が家にとっては、本当に大切な時間でした。

 確かに、連日議会もあり、本会議を抜けて医師と相談したり、親父の危篤状態の中で、常に電話のベルに怯えてはいましたが、実際は、自宅謹慎中の学生のような、「こころ」に書けないような、怠惰な、かえって呑気な時間もありました。

 なにより、私も、しばしば夢にうなされ、親父が最期まで最も心配していた末っ子が、東京から帰ってきて、今、母を支えてくれています。


 親父が、凝りに凝ってつけた名前(けん、しん、こう、の3つの組み合わせで、いろんな意味の熟語になる)の兄弟が久しぶりに揃い、我が子の友紀が、母の前で、おじちゃん達に、まとわりついています。

 実は、親父が、一番願っていた、そんな姿が、馬鹿なことに、今になって、親父の写真の前で、やっと実現したのです。


 トンチンカンなことかもしれないですが、親父が作ってくれたこの時間に、心から感謝したいのです。いろんなことを気付かされた本当に本当に大切な時間です。

 だから、おそらく、親父が死んで悲しいから泣くのではなく、感謝と詫びから泣くのです。




 多分、親父は、後世に残る仕事をしたような偉大な人ではありません。現に親父がいなくなっても、世の中、関係なく、今日も地球は、こうして回っています。

 おそらく、物凄く良いこともしなかったですが、ただ、自分に正直に生きて、人を裏切ることも騙すこともしなかった、おもしろくもない世の中をおもしろく生きた人でした。

 難しい顔をして、発する言葉と言えば、労いには程遠かったですが、実はあれほど、息子達のことを心配していた親父も、そうそういないと思います。
 議会のスクラップを作ってるなんて知らなかった・・・。

 「どうしようもねぇなぁ・・・」と思うことが本当に多かったし、これからも、きっと出てくるかもしれません。


 きっと、私が、一番、良くやったと誉められたかったのは、親父なのだと思います。これからもずっと。

 口が裂けても言えなかった言葉ですが、実のところは、
 私は、親父が、大好きでした・・・・・。

 本当におもしろい親父でした。また会おうぞ。



 いよいよ、2月定例会は、明日が最終日。
 1年間運営してきた行政改革・国体等特別委員会の委員長報告を行います。


 きっと、近々に、「こころ」は、帰ってくることと思います。
 どうあれ、私は、そんな親父の息子ですから・・・・。
 そして、母のためにも。



 私を取り巻く全てのことに感謝を込めて・・・・・・・・。

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