2004年2月16日(月) 【家庭保育について】

 本日は、私立保育園の新設について、ある保育園と市役所の保育課を訪ねました。

 岡山市は中核市であるために、保育園、特別擁護老人ホームなどの設置認可・監督など福祉行政が権限委譲されているため、市内の保育行政に、県が、直接関わるということはありません。

 ただ、自らが子育て世代であるということもあり、待機児童の解消、さらには、幼保一元化をめぐる問題について等々、関心を持たないわけにはいきません。


 基本的には、保育に欠ける児童を預るのが保育園で、幼児教育を行うのが幼稚園ですが、保育と教育の間は微妙で、教育をしていない保育園は、皆無だとは思います。
 保育園がなければ、もはや社会が成り立ちません。

 特に私立保育園は、一方で自由競争のようでもあり、もちろん、本来行政がすべきことを委託を受けて行っているわけで、委託料に当たる保育単価というのは、かなり細かく決められていて、しかも、人数の変動も大きいため、保育園経営というものは、たいへんに骨が折れるものと推察いたします。
 言うまでもなく、命を人生を預るわけですし。


 例えば、一般的な91人から120人定員だと、0歳児ひとりあたり、145960円が支払われ、うち人件費が、125190円、管理費が、11201円、一般生活費が、9569円で、3人に1人は、保育士を置くといった決まりがあります。

 3歳ならば、20人に1人の保育士で、保育単価も、上記の場合で、32950円といった具合に、一人預って幾らという、かなりシビアな計算になります。



 ちなみに、私の母が営んでいた昼夜保育園は、無認可保育園で、行政からは、びた一文も、貰っていませんでした。
 夕方から子供を預かり、真夜中2時、3時に、親が迎えに来るのを待つ、行政は、そういうケースまで、フォローはしません。

 個人的には、本来行政がすべきことだったかどうか分かりませんが、誰もしないこと、できないことを母はしていたのだと思います。

 ただ、あれだけ無理をしながら、あれだけ大切な仕事をしていたのに、我が家には、何も残っていません。表彰状の一枚もありません。

 無認可か認可か、社会福祉法人として寄附できる土地があるかないか、要するに、資産があるかどうか、保育園については、私は、正直非常に複雑な思いがあります。

 それにしても、「マイフレンド」に来ていた子ども達は、今、どうなっているのでしょう。なにしろ、25年でしたから・・・・。



 閑話休題。



 ともあれ、時代は変わりました。夜の世界では、生活のためではなく、享楽のために子供を預ける親達の姿に、母は、疲れてしまったわけですが、そういう話とは別に、少なくとも、今は保育園が原則で、幼稚園はある意味で恵まれていて、保育に欠けない方が、例外かもしれません。

 ある意味、男女共同参画社会の推進と子育て支援は、同時並行の話ですが、現実問題、この景気状況の中で、誰もが、生活しなくてはいけないのです。食わなくてはいけないのです。自己実現もしなくてはいけません。
 子育て世代こそ、一番の福祉の対象である、私は、本当にそう思います。

 そして、おそらく今後も、保育園へのニーズは高まりこそすれ、減ることはありません。子育て支援策の最重要課題として、保育園の充実が掲げられます。

 もちろん、子育て世代の議員として、そのために頑張ってまいります。
 待機児童をゼロにする、それは、どうしても実現しないといけない施策です。


 ただ、私が本当に求めるのは、家庭保育の充実です。

 好くなくとも、就学前までは、あるいは、それ以降も、せめて、家族が皆、午後7時に帰宅していて、一家団欒があり、じいちゃんや、ばあちゃんや、近所の人が寄って集って、子ども達の成長を見守る、それが普通であって欲しい。

 どうして皆、家庭に帰らないんだろう・・・。帰られない社会になってしまったのだろう・・・?

 もちろん、私にとっても、まるで実現不可能な夢のようです。
 けれど、どこかで方向転換すべきだと思うのです。



 今日、つらつらと考えておりました。

 保育園に行きますと、うちと同じ3歳児が集団で縄跳びなどをしていて、「うちの子は3歳になりますが、まだおしめが取れないんですよ」と、申しますと、「ここでは、1歳からおしめをとって、時間通りに、皆できるんですよ」とのこと。

 そうは言うものの、おしめを生涯し続けることもなかろうし、まぁ良いか(妻は、たいへんですが)と、思うのでした。


 英語は、しゃべりたくなったらしゃべるだろう、お遊戯も、そのうちやるだろう、字もいつかは覚えるだろう、しばらくすれば、お猿よりは言うことも聞くだろう。
 私が、伝えたいのは、そういうことでもありません。


 とにもかくにも、なにも甘えさせるのではないですが、「自分が愛されている存在であるということ」と、例えば、ブロックをしながらも、ブロックは、ブロック以外に、全然違う使い方もある、とらわれずになにかする、ということを伝えたいのです。

 特に、愛されることで愛することができるようになる、そんな力は、親しか与えられないものかもしれません。

 そして、なんにでも感動するよう、こっちも一緒に感動します。すると日々、かなりおもしろいのです。
 「今日、何があったんなら?言うてみぃ〜」。「なるほどなぁ。」
 そのためにも、それがなんであれ、なるべくきれいなものや、大きいものを見せるのが重要なように思います。


 いつか親から自然に離れて自立して行くように、「愛されることで生まれる愛する力と、創造力があれば、人間は目標を持って、頑張ることができる。なんにでも感動していれば、日々おもしろい。」
 父親として、たとえ短い時間でも、日々伝えたいのは、そういうことです。それでいつか、自信を持ってどこなりと飛んで行くでしょう。

 もっとも、将来的には、男は、男に、背中を見せて語るしかないのでしょう。なぜなら、いずれ親父なんかとは、口を聞きたくなくなるのが、普通ですから。


 などと、時間は短くても、密度が濃い関係と調子の良いことを書いてみたりしたわけですが、つくづく妻には、お世話になっとります。

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