2003年5月5日(祝・月)【武士(もののふ)の議員】

 本日は、毎年のことではありますが、護国神社の春季慰霊大祭に。ご陽気なアイベン・アールの絵(そんなのあるんか?)のような新緑と薫風の中、やはり、年々ご遺族の方のご参拝が、減っていくように感じます。


 さて、本日は、いかにも抽象的な内容で恐縮ですが、いずれ意味を帯びてくるものでございます。多分、今は、私にしかわからない内容かも・・・・。

 私が小学校の頃、夢中で読んだマンガ、飯森広一著『ぼくの動物園日記』は、飼育係・西山登志男氏の体験をもとにしたものですが、その中の鹿に似たなんの動物だったか「厳かな死」というタイトルが、小学生心に、印象に残っています。

 当時から独特の死生観があったようですが、いかに死ぬかは、いかに生きるか以上に、重要である、と思っているのは、このマンガの影響かもしれません。
 最期は、社会的にも、生物学的にも「厳かな死」でありたいと。


 誰にもいつか終わりがやってきますが、大切なのは、生きてきたことへの尊厳・誇りであり、おめおめと生き長らえることのみを良しとしない、いかに散るか、そういった潔さ、引き際の美学は、武士(もののふ)の議員は、重要視していることだと思います。
 時には、死して名を残すような勝負の仕掛け方もあります。

 ただ、しかし、追う者の美学は、禅譲を良しとせず、奪い取らねば意味がないというものです。されど、機に敏なる先人は、まさに機先を制し、追随を許しません。さすがに凄い。凄いというのは、こういうことなのでしょう。・・・・・・嬉しい完敗。不戦敗。
 勝負というのは、こうやってするんだ・・・。

 その人物の大きさに、限りない憧憬の念を覚え、なによりも、同時代を生きる幸せすら感じます。間にあって良かった、と。
 落語で言えば、私は、三遊亭円生には、間に合いませんでしたが、政治では、終盤に間にあった、という感じです。

 もちろん、目標ではありません。敵いもしません。
 ただ、何年かわかりませんが、時間や空間を片隅で共有できることを大切にしていたい、そのように心から思います。

 そして、遥か遠い未来に、誰かが、私にそう感じてもらえるようになれたとしたら、きっと非常に良い人生なんだと思います。


 いや、実に刺激的な良い一日でした。

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