2003年3月19日(水) 【命について】

 最近マスコミの取材が多いです。某全国紙では、またまた、県議会の特集が始まるようです。

 時間に余裕がある訳でもなんでもないのですが、ここのところ、街宣車とすれ違いながら考えていることを。


 今回のアメリカのイラク攻撃について、国連決議なしの武力行使宣言を即座に追認した小泉総理に対しては、不信感を通り越して、怒りに近いものがあります。
 いくら北朝鮮が気になるとはいえ・・・・。

 しかし、いつまで、このアメリカの覇権が続くのか。世界の歴史からすれば、いまだ1世紀にもならない、パックス・アメリカーナも、いつかは、崩れるのではないでしょうか。
 常識なら、次の覇者は、中国。

 いずれは、北朝鮮も攻撃、親米政権をつくり、最後の敵である中国を囲い込むという図式は、子供でも描けるシナリオです。


 いずれにせよ、国民の生命・自由・財産を守るはずの政治ですが、我々の命はアメリカの国益に委ねられているようです。
 日本国民を開放してくれるなら、アメリカに、いっそのこと永田町や霞ヶ関も空爆して貰えば良いではないですか。



 それにしても、「命」とはなんでしょうか。「桜の下にて春死なん」でもないですが、ここのところ、全体的な不調で、「死」について考えますが、同時に、それは、「生」を考えることでもあります。『千利休本覚坊遺文』か。

 「死ぬのになんで生まれてきたのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」「いつ自分は死ぬんだろう?」
 突き詰めれば、命は、時間なのです。

 「銀河鉄道999」は、「機会の体・永遠の命」と「生身の体・限りある命」のどちらが人間にとって幸せなのか、という一大テーマを追う叙事詩ですが、どうあれ、命の素晴らしさを歌い上げています。
 しかし、軍配は、「限りある命」のようです。

 私は、無駄な命はひとつとてない、命には、なにがしかの意味がある、と闇雲に信じていたいです。なぜなら、命、時間は、可能性でもあるからです。逆に、永遠は、時間がないに等しいです。
 命は、時間であり、可能性です。最後の1分1秒まで。


 いずれにせよ、命は、限りある時間なので、必ず人間は死にますが、それが、殺しあいにより、時間を縮められるほど、可能性を奪い合うほど、悲しいことはありません。全ての神の摂理に逆らうものです。
 真の神が、人間同士で命を奪いあえ、などと言うはずがありません。もし、神があるのなら。

 おそらく、精一杯に命(時間・可能性)を全うするとき、そして、間接であれ、直接であれ、他の命を守るために己の命(時間・可能性)を使うときに、命は輝くのだと思います。

 逆に、子ども達の多くの命を、時間を、そしてなにより可能性を奪う戦争は、いかなる理由があっても、とことんまで、ぎりぎりまで避けないといけないものです。

 なぜ、唯一の被爆国の日本が、いち早く戦争に賛同できるのか、その感覚が、どうしても理解できません。アメリカに向かって、おセンチなことを世界で言える唯一の国が、日本です。日本の感覚が、グローバルスタンダードでも良いのです。
 これは、イデオロギーの問題ではないと思います。



 いずれにしても、県議会議員選挙は、政党色が出るため、国政選挙の前哨戦として、自民党議員という理由で、かなり我々が痛い目にあうことは避けられないでしょう。


 それにしても、選挙がどうあれ、世の中がどうあれ、「わしゃ、知らんがな」と、あくまでマイペースで生きる我が子に、今回どれだけ救われているかわかりません。2歳4ヶ月には、悩みはないようです。精一杯、食って、寝て、遊ぶだけ。

 彼には、私より長い命、多くの時間と可能性があります。たとえ我が子でなくても、そういった多くの命を守ることが、我々の命の役割です。

 命は、その積み重ねでできているのですね。


 「神様の楽書きの人生を全うしよう」

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