2002年8月16日(金)【それぞれの時代の14才】

 徒然文にて失礼致します。

 本日は、毎年恒例の「海軍いかり会」の終戦記念の日の集い。

 青春時代に、常に生死の境にあり、ニッポンという国、愛する人のために戦い、多くの「戦友」を失い、戦後復興から高度成長期、成熟期と、ニッポンをここまで引っ張ってこられた方々の人生の迫力といったものは、そこにいらっしゃること自体、「命の重さ」を突きつけられるようで、圧倒されます。
 私が、生きることにどれだけ真摯であったか・・・。時代の中で、なんなんだ?と、申し訳なく思えます。

 鑑の銃砲を握る14歳。コーラを飲みながら初恋を語る14歳。茶髪で、59円バーガーを貪り食う14歳。その時代時代の14歳があります。全ては、時代なのでしょうが。
 けれども、高度成長期に、安閑と生き長らえてきた我々の平和の言葉は、まるで絵空事。過去の現実の重みの前には、実に空虚です。


 それにしても、真横に死があるから、日々少しずつ死に近づくから、今、生きている輝きがあるのでしょうが、なぜか、人は、自分だけは死なない、と思って生きているようです。

 多分、死から遠いほど人間は平和なのでしょう。けれど、平和過ぎると死の意味さえも忘れてしまう・・・・。だから、生きる意味が分からない。
 やはり、平和は、能動的に造っていくものだと思います。


 護国神社は、昨夜から、萬燈みたま祭で、御霊を迎えるように提灯が並んでいます。夜に境内に続く、ほのかな光の列は、なんとも、厳粛なもので、御霊が降り立つ道筋なのだなぁ、というのがわかりました。
 お盆の意味も、盆踊りの意味も、なんとなくわかる気がします。今日は、そこで、市連合婦人会の盆踊りもありました。

 盆休みに、どこも行けなかったから、恨んでいうわけではありませんが、最も、あの世とこの世が近づく時期に、「命」に寄り添うような気持ちを持っていたいように思います。

 照り付ける太陽に、蝉時雨、むせ返るような暑さに、命が湧き上がるようなこの時期に、一方で、花火のあとのような切なさで、秋の気配も感じている、日本人は、生・死に対して、「命」に対して、きっと、もっと謙虚ではなかったのかなぁ・・・。

 そこに日本人の美しさがあったのではないか、などと、しみじみ考えながら、夏が少しずつ終わっていきます。

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