2001年8月9日(木)【夜空ノムコウ 摩周丸】

 函館は、18.6℃、札幌は、この夏、30℃を越えた日がないそうです。3泊4日の商工労働警察委員会県外調査から帰岡しました。

 来年度から、情報公開条例の関係で、この県外調査のチェックが、かなり厳しくなります。リフレッシュの側面は、どうしても否めず、かといって、全てが無駄のわけではない、要するに、今後の県政にいかに反映されるか、そういった費用対効果の問題でしょう。
 いずれにせよ、以後、今年度以上の調査はないでしょう。

 共産、民主、公明、いわば呉越同舟でいく「視察」は、確かに楽しいのです。ただ、これ全て県費である、と思うと、飛び込み営業をしていた当時の私が、素直に許せるかは、疑問なのです。この不景気に、命懸けで戦っておられる方を思うと、どうも公費というものが、能天気な打ち出の小槌に思えます。
 いわゆる「役得」というものは、私の感性では、平気なものではありません。

 飛行機に乗ること、ホテルにシングルで泊まること、ご馳走を食べること、全部、私の中では、私の分に合っていない気がするのです。
 ただ、私も10945人の方に託して頂いた、その一票一票の重みは、先輩議員と全く変わりません。それでも、そういう待遇は、県議会議員として当然ではないか、と言い切る自身が全くありません。そんなに偉いんか?
 ホテルの風呂に入る時、ああ良い汗かいたなぁ、という実感がないのです。やっぱり、おかしい、おかしい、と思い続けています


 もとより、この調査自体、やはり企画、運営、設営には、職員の方の汗があります。また、先輩議員、他党議員、執行部との人間関係構築という点では、一緒に旅行することほど親密になることはありません。
 そのことを十分感謝、評価させて頂きながらも、やはり後ろめたいのです。

 これから書く視察報告は、容量を増やす、はた迷惑な、あるいは、ただの言い訳かもしれません。
 ただ、それをしないと、あのタラバガニの供養になりません。
 ちゃんと見れば、ちゃんと伝えられれば、本当は、無駄にはならないはずなのです。
 たちまちに公費を還元する私なりの誠意を示させて頂きたいと思います。

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 以下は、情緒的なことで、あまり調査とは関係ないことです。

 私にとって、13年ぶりの函館は、船でも、青函連絡船に取って代わった列車でもなく、関西国際空港から飛行機で入る、という、昔からは、想像もできないものでした。
 昔なら、鈍行列車や快速を何本も乗り継ぎ、4時間以上も船に乗り、やっと届いた函館が、なんの感動もないまま、あるいは、結果として、おしゃれな「観光地」として、訪ねるところになってしまいました。

 着陸して、ずっと聞いていた機内放送で流れたのは、SMAPの「夜空ノムコウ・・・」。
 「あの頃の 未来に 僕らは立っているのかなぁ・・・?」。「全てが思うほど、うまくは行かないみたいだ・・・」。「あれから 僕たちは、何かを信じてこれたかなぁ・・・?」
 こんな形で、こんな思いで、再訪することを、あの頃の自分は、許すだろうか?今の自分に、彼は、OKを出してくれるだろうか・・・・?
 ちょっと自信がありません。


 翌朝、摩周丸に、会いに行きました。そうだ、ずっといたんだ。

 青春18きっぷで、日本中を経めぐっていた学生時代。五能線や青函連絡船は、なにか妙に感傷的なものがあります。特に、青函連絡船は、青春18きっぷで、最も長く乗られる船で、私は、津軽海峡を往復して、深夜便を宿代わりにしていました。

 昭和63年、瀬戸大橋がかかる一方で、「さよなら青函連絡船」フィーバーがありました。誰もが、船の軌跡に自分の人生を重ねました。
 八甲田丸、十和田丸、羊蹄丸、摩周丸。彼女達が就航したのは、私が生まれた昭和39年頃、それが、妙に切なくて、自分と重ねていたように思います。
 「津軽海峡冬景色」・・・冷たいというより、突き刺すような真夜中の海峡の風、おどろおどろしく流れる雲の向こうに見え隠れするオリオン座。
 全てぶっ飛んでしまえ、何もかも消えてしまえばいい、そんな思いで眺めていました。

 あれから13年。そのうち、摩周丸は、函館の朝市の賑わいの向こうで、歴史の遺物として、ちょっと悲しい老醜を晒しています。
 昨日の北海道新聞によると、第三セクター「函館シーポートプラザ」は、摩周丸の函館市への売却方針を正式決定。函館市は、「購入額の見当がつかない」と、困惑しているとか。

 民間の青函連絡フェリーは、宇高連絡船の後と同様残っていますし、ノスタルジーだけでは、語られないものもあります。
 どれほど打ち寄せる波にも、決して揺れない固定された船。
 もう彼女から、新しい思い出は生まれてこないでしょう。

 おーい、摩周丸よ、こんな未来が、欲しかったんか?本当に残って良かったんか?・・・・時が経つのは、かなわんなぁ・・・。

 ボロボロになった真ん丸の看板。デッキから、あれを見上げていたんだなぁ。あの時、何に、ああ苦しみもがいていたのか。ああ、それでも、あれが、青春だったんだ、吉田拓郎や、小椋佳が、どう歌おうが。
 ふと、青春の抜け殻を見つけた県外調査。

  しかし、全く違う自分も発見しました。・・・・・ああ、そうだ、家族がいる。


 今度は、いつ、どんな形で、摩周丸に会えるでしょう。
 遠くなっていく自分の姿。どう生きたら、どこまで行けば、納得するんだ、お前は・・・?
 それでも、あの頃の未来に、立っています。


 相変わらず、スタンプを押して喜んでいる、37歳の男を石川啄木は、笑うでしょう。しかし、私は、啄木と違って、頼みにしている自分の年齢に、ふと気付いても、決して旅は、嫌になりません。
 やはり、生きている限りは、人間として、迷いながら進み続けるでしょう。


 どんな形であれ、旅は、できます。
 答が見つからない限り、いくらでも旅は、できます。

 まだ、進むことができます。

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