2001年5月12日(土) 【人間回復?】

 昨日の熊本地裁のハンセン病「西日本訴訟」の判決の報道を新聞やTVでご覧になられて皆様どう感じられたでしょう。
 岡山県には、全国最大規模の国立療養所長島愛生園、邑久光明園があり、今回の判決は、「瀬戸内訴訟」にも大きく影響するでしょう。

 ただ、私は、「国の謝罪」、国家賠償をもって、「人間として認められた」と片づけてしまって良いのかな、「国」、端的には、厚生労働省が、謝罪すれば済むことなのかな、と思います。

 もう2年近く前になりますが、まだ、「こころ」の発信のない頃、私は、岡山の(元)患者さんをさえる会のメンバーの方と長島愛生園を訪ねたことがあります。実際に、(元)患者さんのお話を生活されている部屋で、いろいろと伺いました。
 その際、訴訟に立たれる行為が、現実問題、必ずしも、全ての(元)患者さんの声でもないと知りました。
 美しく穏やかな瀬戸内の風景と、どんよりとした空気の斎場が、印象的でした。問題の根深さを痛感して帰りました。

 しかし、それ以後、私は、愛生園を訪ねてはいません。自分の心に自信が持てない、というのが本音かもしれません。先日の佐伯・水俣展でもそうでした。私は、自分の心に、自信が持てません。今もです。
 当時、当事者だったら、私も「加害者」だったかもしれません。言い訳ではないですが、子どもができたら、より、何かを守るために、何かを犠牲にすることがあるかもしれない、皆、そうだったかもしれません。
 当時なら、私もきっと「加害者」だったと思うのです。誰かを責める資格がない・・・。いや、今も、なにかの「加害者」かもしれません。


 地域ぐるみ、行政ぐるみで、極めて激しい人権侵害が行われた事例として、象徴的に、ハンセン病があり、象徴的に、国が、謝罪したとして、それは大きな前進ですが、それでどこまで、解決するのでしょう。
 HIVもそうです。いろんな障害もそうかもしれません。いじめもそうです。誰かに、誰かが謝ったところで、一人一人の心の問題は、なにひとつ解決しないのではないか。

 今回の裁判は、金銭が欲しいのではなく、国の謝罪が欲しいのではなく、本当は、我々の「心」に突きつけられた抗議の叫びだと思います。国家賠償の財源は、我々の税金です。ある面で、断罪されたのは、過去、現在、未来の日本国民でもあります。それは、肝に銘じないといけないと思います。


 私は、「人権保障の番人」のような、TVのキャスターの「自信」は、どうしても見ていられないのです。そんなに立派なんか。奇麗事では済みません。まだ、何も解決していません。これからも、今も、我々の「心」が生み出す事件は、生まれ続けると思います。決して終わりません。


 佐藤真治、有罪。

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