2000年12月29日(金)
【長文20世紀の終わりに  第三者って誰?】

 勢いで綴るここ数日の「こころ」ですが、かねてより疑問に思っていることを吐露します。すなわち、行政が良く使う「第三者機関」という言葉についてです。
 私は、この「第三者」という概念が、はっきり大嫌い、かつ、大問題だと思っています。民主主義無視も甚だしいモノだと思います。

 端から行政の方向性が決まっているのに、市民・県民の声を聞いたとして、学識者だの有識者だのと称する方々が、やれ審議会だ、協議会だ、調査会だ、委員会だという名目で、会合を重ねて、答申を出し、それを錦の御旗に、半ば決定事項のように報道され(わざわざ首長が、答申を受ける写真など報道して)、もう行政は、そうするもんだという雰囲気の中で、平気で議会に事後承諾をはかってきます。

 二言目には、公正・中立な機関で審議した、などと言いますが、さぞかし議会は不公正で、偏っているのでしょう。
 しかし、審議会など、その実態は、あくまで、行政にとって都合の良い方を行政自らが、選任し、お手盛りのように議論して頂くものです。
 下手に発言するとなぜか、行政からクレームがきます。
 この結果が、行政の執行にあたり、議会を遥かに越えた影響力を持つことは、議員として情けなく、市民・県民としては、恐怖です。


 なぜ、法治国家なのか、なぜ、法の支配を行政に及ぼすのかという基本中の基本は、行政権(権力)の恣意的発動に対して人権を保障するためです。
 あくまで、行政は暴走するもの、人権を侵害するもの、という認識の下に、例えば議会を通じて、あるいは首長の直接選挙で、民主的コントロールを及ぼすのです。
 法治国家の根底にあるのは、あくまで行政への絶対的不信です。血で血を洗いながら、行政をしばる、そういった人権保障のシステムは、作られたのです。

 日本人のメンタリティーの中に、お上は自分達を守ってくれるものだという、幼稚な勘違いがあり、なんのために、議員(立法)を選ぶのか、根本的なことすら、わかっていない方がおられます。
 立法は、行政に対して、法の支配を及ぼそう、すなわち、人権保障に資するために存在するのです。
 法治国家の「いろはのい」が、なぜか日本では、理解されていません。

 知事は、漠然と良い方、議員は政治家で汚いモノと考えられる方がおられたら、江戸時代に行って下さい、と申し上げます。それでは、300年前の人権思想から、全く進歩していません。
 誰が、人権保障の味方で、誰が敵なのか区別がついていません。逆です。

 本来、行政の不透明な政策形成過程こそ、白日の下に晒さなければいけません。まさに、こういった審議会行政こそ、行政権の恣意的発動、ゆえに独裁だと申し上げているのです。
 個々の議員を挙げ連ねてもしょうがないのです。相手は、行政です。

 例えば、審議会のどこに、民意が反映されているのですか。どうやってメンバーに我々が、民主的コントロールを及ぼすのですか。彼らは、どう責任を負うのですか。それを申し上げたいのです。


 こんな例があります。
 ある施設に関する委員会で、座長が一言。「私は、この施設ができる時からこの委員会に関わっていますから、よく経緯は知っていますが、あれから30年たって、時代に対応して、そろそろこの施設の建て替えも検討しないといけませんな。」
 「まず、あなたが、辞めたらええが。」と、私は言いたかったです。

 「児童」に関する審議会で、私が発言。「メンバーの中で、子育て世代は、佐藤委員だけなので、たいへんに参考になりますねぇ。」
 誰のために、誰が議論しとるん?多分、メンバーの平均年齢65才でした。これから生むんかい!!

 また、複数の審議会のメンバーを兼ねられる方(先生、先生はどこでもおられますが!!)、また、首長の後援会の後援会長が、答申する側になるケースを多々見てきました。

 こういった場合、どこにいわゆる公正・中立な第三者が、おられるのでしょうか。それでも、行政は、「第三者」に凄い権威を持たせるのです。
 そんなに、第三者は、偉いんでしょうか???

 この部分は、次世紀に、どうしても変えないといけない部分です。

 公正・中立な第三者に過度に期待すればするほど、公正・中立でなくなる危険を内包します。
 むしろ、なんでも晒せるだけ、徹底的に晒してしまうほうが、良いと思います。

 ちなみに、今回のアメリカの大統領選挙で、裁判官や選挙管理者が、公正・中立な第三者でないことがよく分かりました。しかし、彼らは、少なくとも中立の者はいないという前提で、動いています。それなら、それでいいのです。なぜなら、なんでも選挙するのですから。


 20世紀の終わりに、21世紀の地方において、地方議会の復権無くしては、真の民主的な社会は実現しないと断言します。
 そのためにも、まず、我々市民が、あくまで自己責任に基づいた民主主義のルールの中で生き抜くんだ、正当な手続きで決まったことには、市民の責任として従うんだ、そういう基本を認識する必要があると思います。
 第三者ではなく、自らの手で、公正な社会を作り上げる気概が必要です。

 また、行政に頼るのではない、市民自らの手で、自由で民主的な社会を作り上げる道具として、「議員」を使って下さい。
 私も、そのために「議員」を使います。

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