2000年9月2日(土) 【大問題の教科書採択】 | ||
本日、保守系の市議会・県議会議員で、「教科書を考える議員研修会」が、行われました。私は、好んで自由主義史観と言われる会に出席しますが、自分でも、右翼か左翼かわかりません。多分、右の方には右、左の方には左、ウッディアレンには、カメレオンマンと言われています。
さて、文教委員会大荒れ必至の問題として、教科書採択の問題が、出てきそうです。まさに、日本の将来を賭けた政治的な戦いの様相を呈してきました。 17才問題から、道徳教育の問題が浮上してきたのはお伝えした通りですが、ここに来て各教育委員会における教科書採択の問題が、からんできました。まず、歴史教科書の検定は、文部省が行っても、採択(採用)は、地方で決められる(文部大臣に報告)ことをご認識下さい。 かねてより、我が国の現在の歴史教育の歪みと、こうした歴史教科書の不健全さを正すために、平成9年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」が、作った新しい教科書が、文部省の検定を受ける段階に来ています。 平成14年度から、新「学習指導要領」が、施行されますが、新指導要領には、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる(歴史的分野)」「自国を愛し、その平和と繁栄を図ることが大切であることを自覚させる(公民的分野)」ことが、中学校教育の目標の第一に掲げられています。 言うまでもなく、「新しい教科書」は、この目標に沿ったものですが、文部省の検定を突破しても、その本が、教室に入れるかは、これからなのです。 というのも、現行の採択制度が、なにやら不透明だからです。 教科書採択においては、「教育指導要領」に沿うことが、大前提ですが、義務教育の現場に、端から、これを無視する輩がいます。このことが、問題なのです。 そもそも、教科書の採択、すなわち学校で、どの教科書を使うかを決定する権限は、各都道府県・市町村教育委員会(国・私立は、学校長)にあります。ただ、実際上は、教科書の調査・研究は、学校の教員や学識経験者からなる教科用図書選定審議会が行います。 そこでは、事実上多数決で、ことが決せられ、それを教育委員会が、追認するのが実態です。その多数決の多い方に、学習指導要領を無視する者がいた。選ばれる教科書に、何が起こるでしょうか? こうして、「南京大虐殺」や、「従軍慰安婦」が、歴史教科書の上で、踊りました。一読して、粗野で野蛮な日本人が、人権を蹂躙し、多くの差別を生み、近隣諸国に、全世界に大迷惑をかけてきた、それはもう極めて恥ずかしい歴史を作ってきた。全世界の異端児、「生まれてきてすみません」、日本人なんか死ねばいい、もうなにしても私ら恥ずかしい歴史の国ですから、ごめんなさい。もう、日本だけなんですよ、こんな恥ずかしいのは。ろくな人いなかったんですよ、だって日本人だもん、善いことなんてするわけねーじゃん。将来も暗いよね。業を背負ってるから。なんでも言ってね、怒ってね、悪いのは、全部僕だから・・・。日本で、日本人で、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 しかし、みんな、庶民は悪くないぞ!悪いのは自民党だ!金持ちだ!奴等を倒さないと日本は良くならないぞ!!さぁ、みんな肩を組んで、戦うぞ〜!!こんな腐った歴史を反省して、新しい日本を作っていくために、戦うぞ〜!!・・・・・・楽しい教科書ですね。 自国のことが、愛せない人間に、他国のことは愛せません。真の国際感覚とは、付和雷同に紛れることではない、相対的に、日本人は、日本と日本人に誇りと自覚と責任を持つことです(それが個性でしょう)。私は、私、あなたは、あなた、されど仲良し。認め合える。みんな違って、みんないい。 どんなに、酷いことがあったとしてても、日本人は、この日本に昔生きた人達のことを許そう、認めよう、愛そう、そしてつながっていることに誇りを持とう、そして次の世代に責任を持ってつなげていこう。 まず自分を自分自身が、認められること、愛せること、自分を取り巻くものを認められること、愛せること、それが何より重要です。知識を教えるのが教育ではない。一人前の社会人として立派に生きていくことにつながることを歴史という材料を使って教えるのです。知識はいつか忘れても、許し方や愛し方は、誇りは、忘れないでしょう。それを義務教育では、教えるべきだと思います。 それを教えられない義務教育の教師は、ただの知識や、己の政治思想や、歪んだ信念を子ども達に吹き込む教師は、教育現場から即刻立ち去るべきだと思います。 いわんや、自己否定のみを書きなぐった教科書で、何が教えられるのでしょう。 この教科書問題が、実際17才の問題と直接どうからむかは、証明できないかもしれませんが、私は、戦後教育の在り方の問題の象徴として、教科書の問題や道徳教育のあり方が、昨今の事件と関係していると認識しています。 我々は、教育現場に無関心、無責任でありすぎたのかもしれません。 今、教科書の採択の仕方が、オープンになろうとしています。極めて根の深い問題もあります。国外と国内に「裏検定」も存在すると言われています。誰が、なぜ選んだのか、全部晒さないといけません。是是非非の戦いは、必要なのかもしれません。教員が聖職と言われた時代は済みました。学校に任せきりの時代も終わりました。 最後にあるのが、政治の戦いならば、決して緩めません。 少なくとも、私は、全国でも珍しいほど偏向した教科書を岡山市の中学校が、使い続けることは、子ども達のために、日本の未来のために、許しません。 | ||
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