2004年6月29日(火) 【『あさかぜ』】

※7月4日に、小泉総裁再び来岡(倉敷)予定です!!

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 本日は、岡山大空襲があった日です。私の祖父の弟や赤ん坊が、防空壕の中で亡くなった日でもあります。戦禍に見舞われた平和町は、昭和39年に、まさに平和を祈って桶屋町から名を変えたのでございます。

 先の大戦で尊い命を犠牲にされた全ての御霊に、謹んで、哀悼の意を捧げるとともに、なにかと物騒な世界情勢に、心から世界平和を祈る次第です。



 選挙戦は6日目。今朝も朝8時過ぎから午後4時頃まで、党本部の広報車『あさかぜ』に乗り込みました。

 昨日は、証票の関係で、岡山県連の『あさかぜ』と綱渡りで乗り込みましたが、結局、ここまで選挙戦6日のうち、5日は、『あさかぜ』に乗ったことになります。
 おかげでずいぶん焼けました。

 特に、昨日は、安部晋三幹事長が倉敷に来られたことに加えて、自民党の青年部・局の衆議院議員7人が来岡。さらに、地元加藤勝信衆議院議員も加わり、ほぼ半日、倉敷・児島・岡山を党本部と県連の「あさかぜ」で回りました。

 正確には、この2日間の「あさかぜ」の担当は、県連も青年部・局だったのですが、選挙区外となると、なかなかに協力も貰えず、主に小田圭一青年局長と青年局次長の私は、のこのこ遠征していたわけで、私にしてみれば、かえって岡山市1区分は、それほど回っていません。
 これは、お役ですから、当然我々が、しなくてはいけないことです。

 今日も、岡山市から総社、真備、矢掛、笠岡、里庄、鴨方、寄島、玉島、児島、倉敷と進んで、倉敷からは、電車で戻りました。
 それでも、選挙ほど地域の雰囲気が分かるものはなく、また、他の議員の演説がいかなるものかも含めて、たいへんな勉強になりました。


 ちなみに、昨日は、金子恭之青年局長(熊本5区)、西川京子女性局長(比例・九州)、棚橋泰文前青年局長(岐阜2区)、谷本龍哉青年部長(和歌山1区)、江崎洋一郎青年局次長(比例・南関東)、井上信二青年局次長(東京25区、夫人は岡山出身)、菅原一秀青年局次長(東京9区)と、将来を嘱望される若手代議士の方々と、「共演」させて頂きました。

 とはいうものの、世代が近いと血が疼き、わざわざ遠路応援に駆けつけて下さった若手国会議員の方々に、若手岡山県議会議員魂で、張り合うぞという気持ちがなかったわけもなく、いつにも増して気合いを入れてしまいました。

 しかし、流動街宣は、勢いで何とかなるものの、国政選挙ですから、停止街宣になると知識や能力の差は歴然とし、どこか情けない気持ちになったのも事実です。
 内容を決してダブらせない8人のメドレーは、正直、唸るものがありました。そして、非は非として認めつつ、全体的には自民党の政策に、本当に自信が持てるものでした。

 才能はもちろん、運と、なにより、運を呼び込む努力があっての国会議員ですから、やはり、私は、分をわきまえないといけません。ともあれ、文部科学大臣に続いて、大いなる刺激を頂戴した昨日でした。
 ある意味、汗をかくことで初めて感じられることがあります。


 昨夜の中央中学校の個人演説会の応援弁士の役目では、そういうこともあり、ただただテンションをあげんがための、あまり内容のない、つまりはマイクを破壊するためのような、絶叫型の演説に終始したのでした。誠に申し訳ございません。

 その後、来賓でお邪魔させて頂いた中山中学校、高松中学校とも、個人演説会は大盛況であったのですが、ただただ己の未熟さを痛感いたしておりました。


 そして、全国を6台走っている党本部の「あさかぜ」は、徳島に進んで行きました。「あさかぜ」に今度乗るのは、終盤戦になると思います。
 法定ハガキを書かなくては・・・・・・。


 それにしても、私自身も上ずっているようですが、全体的に未だ低調でありよほど引き締めてかからないと、ここまでの序盤戦、あるいは勝てていないのかもしれません。

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