2007年12月6日(木) 【代表質問の重さ】

 33回目の一般質問の日程が決まりました。12月12日(水)5番目で、午後2時に議場に起こし頂ければ、確実に傍聴頂けると存じます。


 さて、本日から議会再開。代表質問初日は、我が党と民主党系会派。
 他会派の代表が、代表質問の再質問を的な発言をされかけたのを天野議長が制しましたが、代表質問の認識が、我が党とは、ずいぶん違うのだなと思いました。


 37人の議員を擁する自民党においては、代表質問は、最低3期以上が行い、原稿についても、議員総会で意見も募り、政務調査会で協議を経た後、恭しく、当局に提出する儀式もあります。

 37人の総意による統一質問ですから、有権者40万人の声の重さがあると思います。ゆえに、知事部局への質問は、全て知事が、最大限の誠意を持って、答弁します。それだけの格式があるものと、私は認識しています。
 私が出来る一般質問が、機関銃なら、代表質問は、巨大な大砲です。そのぐらい破壊力=影響力も、違います。
 ある意味、代表質問は、格式高いものであり、あらゆる冒涜は許されません。あるいは、守るべき伝統の類というより、品格の部分です。


 仮に、代表質問の答弁に対して思いがあるなら、各派の一般質問に委ねるのが、本会議の論戦であり、会派代表がその場で、全権委任の再質問権を持っているわけではありません。これは、議会の活性化というレベルとは、全く違う話です。

 もちろん代表質問者が、その時の代表質問に大きな影響力を持つのは当然ですが、ある意味で、党を代表して質問するまでは、ともかく、一般質問で、修練するわけで、我が党の代表質問は、決して長い一般質問ではないのです。


 若い期の議員が頭角を現すなら、一般質問や委員会質問の技量を磨く以外ありません。そのためには、勉強が必要です。敢えて言えば、発言で値踏みされます。言葉以外に、能力が分かりません。しかし、発言し続けないといつまでも、様子も分かりません。

 こうした議会政治は、政策を一にするからこその政党であって、政党という組織を組み、それに属するからには、仕組みとして、容認せざるをえないと思います。
 無所属を標榜しない限りは。


 したがって時間がかかります。その時間の中で、自分なりのチャレンジを繰り返し繰り返し、思いを萎えさせない、つまりは、忍耐しかない・・でも、それは、きっと、他のどの世界でも、分野でも、同じだと思います。
 もしも、飛び越えられるなら、よほどの天才か、よほど運が良い人です。ただ、早く行ければ良いというものでもありません。

 いずれにせよ、私が、代表質問に立つには、もう少し時間がかかります。

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 ところで、倉敷チボリ公園に関する本日の我が党の代表質問で、知事の答弁に、極めて大切なことが、3つ含まれていました。「本当に愛していた。でも、さようなら。これで自由になれるよ。」。

 そのことで、私が、倉敷チボリ公園について一般質問する必要が無くなりました。ある意味で、非常に怖い答弁だったと私は思います。


 「・・・・両社が名称等の使用を含め合意に達することは、極めて困難であると考えている・・・・再度の県民・市民公園化は極めて困難であると考えている」

 「移行期間後において、現在の形そのままで公園を維持するための選択肢としては、県の地代負担なしでチボリ・ジャパン社が自主運営する案、民間事業者が自主運営する案に限られる・・・しかしながら・・・いずれの案にも大きな課題があり、現実には困難ではないか・・・。

 地元経済界や多くの出資者の御協力を得て整備した公園が、更地になることは是非とも避けたい・・・・・現在の形にこだわることなく、土地所有者等による開発の中で、緑と花と水辺の空間や園内施設をできるだけ活かして頂くという選択肢もある・・・」


 加えて、我が党の代表質問での言質をとられました。私も、代表質問の草案段階の原稿で、表現の重さに気がついていましたが、自民党は、連帯保証的な責任を自ら認めたことになりました。

 ある意味、議会サイドには、非常に重い発言でしたが、当然だと思います。初めての知事の公式謝罪(遺憾は、謝罪か???)の呼び水になりました。今後は、共同責任論に進むはずです。

 「なお、ご質問の中で、『我が党は、チボリ公園に関しては、一貫して支援を行ってきており、現在の状況になっていることについて、責任の一端はあると思っている』とのお話をいただいたが、県議会の皆様の御支援をいただきながら、県として、これまで精一杯、公園を支えてきたところであり、現在の状況になっていることについては、責任を感じており、大変遺憾に思っている・・・」


 少なくとも、行政の支援が無くなることイコール更地ではない、ということで、次なる動きが加速するかもしれません。

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 ところで、最近、私が、「我が党」のコメントをすると、市民・住民感情より、党ありきなんだと感じられるという御意見を頂きました。多くの方がそう思われているのでしょうか?


 私は、ニュースキャスターがしたり顔で、「全く、この国は、どうなっているんでしょうね。」と言うときの「この国」という言葉が、大嫌いです。呆れるだけで、自分だけ、少し距離をおいて、第三者のように批評する態度が、無責任極まりないと思うのです。

 それを言うなら、「我が国」でしょう。自分自身を当事者に含めて、「我が国」を論じれば、責任の一端を担い、己ができることをやる義務が発生します。
 ニュースキャスターが、「その国」のために何をしたでしょうか?「この国」といわれる「我が国」が、かわいそう・・・。

 我が家、我が町、我が街、我が校、我が社、我が市、我が県、我が国・・・・・・・もちろん、「我が」でも、闇雲に愛せる訳ではありません。むしろ、悲喜こもごも、愛憎半ばすることだってあるかもしれない、しかし、はっきりしているのは、「我が」というのは、責任を背負うということです。

 いつからか、私は、自民党ではなく、我が党と書いていると思います。それは、自民党に責任を負っているからです。
 「全く、この党は、どうなっているんでしょうね。」と書ける立場には、もはやありません。

 しかし、私は、我が党の擁護だけしている気は、さらさらございません。むしろ、市民の視点から外れれば、党の方を変える、そのために頑張っているつもりなのですが・・・・。少なからず、ショックな言葉でした。


 これから、一般質問の原稿が定稿すれば、党再生の提言書の起草を私がしますが、そういった思いは入れ込むつもりです。

 我が党の思いは、下記党歌に象徴されると信じています。
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自民党 党歌「われら」
               作詞:岩谷時子 作曲・編曲:山本直純

1番
われらの国に われらは生きて
われらは創る われらの自由
月日の流れを いつも見つめて
今日より明日へ 道を拓こう
一人の幸せ 皆の幸せ

2番
われらの愛する われらの子らへ
われらは遺す われらの心
すぐれた昔の 文化を伝え
この日の息吹 深く刻もう
一人の幸せ 皆の幸せ

3番
われらの山も われらの海も
われらの宝 われらのいのち
明るく輝く 地球の上で
世界の平和 きっと守ろう
一人の幸せ 皆の幸せ

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