2002年4月27日(土) 【公安委員会強化について】 | ||
一昨日の落書きの対策を考える会でも、地域の方から警察への批判が相次ぎましたが、私が司会をしておりましたため、途中で止めるようなことにもなりました。
しかし、実際に、この1ヶ月、地域の方の声を聞き、交番や警察署などを訪ねるうち、正直に書いて、警察に対する風当たりは、相当きついということを実感致しましたし、いろいろ感じるところもありました。 地域住民の皆さんが、そう言いたくなるのも、痛いほどわかります。 ちなみに、平成12年の警察刷新会議の提言は、実現されると素晴らしいものであり、市民のそういった声があるのは、警察の側も十分認識はされているのだと思います。 もとより、一方的に警察を責めるものではなく、地域の安全確保のためには、地域住民自らが、連携し、汗をかくことは肝要です。いたずらに、警察批判をしたところで、なにが、刷新されるわけではありません。 ただ、その連携のためには、今一度、警察への信頼を取り戻さないといけません。さもなければ、命懸けで、職業として就かれている警察の方が、あまりに気の毒です。 内情を伺えば、本当に激務であり、交番がいつも空なことも、暴走族や落書きが取り締まれないことも、一見弱きをくじき強きを助けるように見えることも、仕方ないのかな、という気にも、させられます。 しかし、地域住民にとっては、出ている結果こそが全てで、仕方ないでは済まないというのも、また事実です。 要するに、現体制では、無理なのではないですか?無理なら無理とはっきり言って下さい、と申し上げたく思います。どんなに厳しいか、辛いか、はっきり市民に伝えれば、良いのです。全て抱え込まないで欲しいのです。 人間だもの。やりきれないのではないかなぁ・・・。 ですから、警察の一番身近にいる市民の代表の公安委員会の機能は、本当に重要です。教育委員会しかりです。実務・執行機関の「上」にいるのですから。 ちなみに、公安委員会は、警察の民主的管理と政治的中立性の確保を図るために設けられたもので、県民の良識を代表して警察の仕事に県民の考えを反映させるという役割をもっています。 我々は、(知事の指名で)議会の同意のもと、市民の代表を送り出しているわけで、組織的に言えば、民間の教育委員長の下に、実務の教育長が、民間の公安委員長の下に、実務の警察本部長が、いるのです(解釈)。 そういった形で、執行(行政)に、「民主的コントロール」がかかっていますが、その「民主的コントロール」機能が、形骸化しています。 公安委員会、教育委員会は、もっと市民に情報を伝える責務があります。公安委員、教育委員は、選挙で選ばれているわけではないですが、情報を伝え、民意を反映させる責務があります。特に、選挙がないのですから、彼らの責任は、極めて重要です。決して、名誉職ではありません。 民主主義国家においては、「民主的コントロール」が及ばないところに、権限はありません。軍隊のシビリアンコントロールも、こういった意味です。 にもかかわらず、多くの市民は、公安委員長、教育委員長の名前すら知りません。これは、非常におかしいことです(アメリカなら郵便局長まで選挙で選びます)。公安委員に民意が届いているとお感じでしょうか? 警察「行政」を変えるには、「民主的コントロール」をかける担い手である公安委員会を見直すこと、強化すること、それが、極めて重要です。 「民主的コントロール」のかけかたを変えないと、行政機構は、絶対に動きません。構造変革は、起きようがありません。 端的にいうと、警察も、教師も、行政も、民意が及ばないから、市民が恐くないのです。ここらへんは、選挙がある議員と全然違います。彼らに、きっちり、「民主的コントロール」を及ぼす必要があります。 ゆえに、私は、警察変革のキーは、公安委員会の活性化だと思うのです。 なぜ、いつも肝心な時にいない交番の前で、思い出したように、シートベルトについては、取り締まるの? どうして、危険ならそうなる前に、注意すればいいのに、一番スピードが乗って、うっかり速度違反した車は捕まえて、暴走族は野放しにするの? どうして、交通巡視員は、逆らいそうもない自家用車をレッカー移動させて、田町や中央町の33ナンバーを放置して平気なの? 二段階右折違反のおばちゃんを白バイで追っかけて説教して、なぜガンガンに、軍歌を響かせる右翼の街宣車は、取り締まらないの? なんで、公僕が、食わせて頂いている市民に対して、あんなに失礼な口の聞き方(下卑た岡山弁)をするの? こんな話は、枚挙に暇がありません。 全部理由が、あるのでしょう。その理由を公安委員会から、明示して欲しいのです。「それは、どうしても必要です。とにもかくにも、人が足りません。それは、交通巡視員の仕事ではありません。それは、担当課が違います。」実務的には、そうかもしれません。でも、市民には、全て警察なのです。 一部を持って、時として警察組織が変に見えることもあるのです。 それは、市民にとっても、警察にとっても、極めて不幸なことです。 それらを変える力を、警察が信頼を回復し、市民とさらに、連携するための力を公安委員会に与える手だてはないでしょうか? 一番良いのは、公安委員長、教育委員長の公選制です。すなわち、この街では、こんな形で治安を守ります、こんな教育を行います、そう議論を経て、長を我々が、選択するのです。(現実には、難しいでしょうが。) ただ、これは、市民の側も、よほど成熟していないと、N区のように、憲法問題に発展しかねない要素があります。 一方、実務型から、素人の委員に、何がわかるんなら、とか、交通違反を全部免除させるような衆愚委員長が選ばれるに違いない、という声が出るなら、要するに、それだけ市民を馬鹿にしているということでしょう。 ともあれ、テーマは、「成熟した市民」による「民主的コントロール」です。 つまり、有事法制なども、この「民主的コントロール」という観点から見なくてはいけません。国家として、有事の機敏なる対応は、当然すべきですが、「民主的コントロール」の及ばない独裁制に移行しうる仕組みをつくるわけにはいかない、ということです。要するに、そういうことです。 ただし、「成熟した市民」による「民主的コントロール」でないと、独裁よりもまだ質の悪い衆愚政治に陥るのは、言うまでもありません。 今は、あらゆる面で、市民の成熟度が試されている見極めの時期かもしれません。 | ||
Copyright (c) 2002 SHINJI SATO Inc. All rights reserved.satoshin.jp |