2009年2月3日(火)【『道州制で日本を変える』】

 本日は、午後から広島で、日本経済団体連合会、経済広報センター、中国経済連合会の主催で、シンポジウム『道州制で日本を変える』が開催され、道州制が所管の委員会の委員長というわけではなく、個人的な強い関心から、わざわざ早朝に発って、出席させて頂きました。

 広島までは、バスで行くのがお勧めです。貯まった資料を読むには丁度良い時間ですし、平日は、隣に人が座るぐらい込むことは少なく静かですし、何より安いし、バスターミナルの位置が至極便利です。


 さて、道州制の議論に関しては、主催者側の方々も共通の認識ですが、確かに、市民レベルに浸透はしていません。

 一方で、道州制は、地方分権と言うよりも、国の構造を変える大改革であり、霞ヶ関の抵抗、族議員の抵抗、リーダーシップの欠如がある中で、政治的に動くしかないわけですが、誰が、いつ、どのように、やるか?世論の支持があるのか?まだ見えていません。

 国の出先機関の扱いひとつとっても、最近やっと、議員定数削減議論が出てきましたが、国会議員の先生方が、詰め腹を切って、あるいは、官僚と腹を指し違えてでも、国の機構の解体をして、道州制になったら、いつ議員を辞めても、死んでも良いという覚悟がないと、動きません。

 もちろん、知事は当然、地方議員もそうです。「死して屍拾う者無し」でないと、己の保身や、選挙の事のみに汲々していては、政治が、大きく動くはずもありません。
 これは、政権交代というレベルではない話です。


 ただ、時機というのはあると思います。

 政府も、自民党も、経団連も、議論や構想は、あるのですが、結局、外圧(?それは、国家的な危機かもしれません)を待つしかないのか・・・このままでは、「茹でガエル」です。

 健康対策というよりも、社会不安から、「ええじゃないか」のように、「笑いヨガ」が流行ってきたり、巷で、「天誅」が叫ばれるようになれば、時代がうねる世相に、さらに近づくのかな。
 自民党のみならず、永田町と霞ヶ関が、まとめて江戸幕府に見えてくれば、それは、幕末に、似てきたかな、という感じなのでしょう。
 天変地異が、来なけりゃ良いですが・・・「ともだち」を呼ぶわけにもいきません。
 いずれにせよ、このままで良いわけがないのですから、もう時機だと思います。


 ともあれ、地方議員も、道州制に対して、悲観論を言う方が、現実的で利口には見えますが、若い衆が一緒になって、それを言っていれば、そこに未来はありません。
 センスと神様に与えられた使命が、分岐点かも。

 どうあれ、経営者的な見地からは、誰が見ても、二重・三重行政や中間マージンの搾取的組織は、明らかに無駄であり、前例踏襲や意味不明の規制、さらに決定の遅さは、ビジネスチャンスの阻害要因以外の何物でもありません。
 経済界が、政治にじれるのは、当然です。



 しかし、市町村合併の疲弊が、地方分権への不信感を生んでいるのは事実で、その払拭が必要です。

 ところで、藤田広島県知事が、「垂直補完」と「水平補完」という言葉を使われました。基礎自治体に、権限や財源を移譲する中で、県が果たすべき役割として、補完性の原則がありますが、基礎自治体同士でも、補完すれば良いというのは、考え方です。
 実際、消防や廃棄物の処理では、広域で行われています。

 私自身、「事実上は、基礎自治体をまたぐ幹線道路である町管理の広域農道について、平行している県管理の国道に絡めても、縦割り行政の中では、県は動くことができない」というジレンマの中にありますが、自立性を第一義に、県からの垂直補完ではなく、周辺基礎自治体からの水平補完もある、という考え方です。

 ある意味、敢えて合併しなかった町村がどう生き残るかを考えたときに、水平ではなく、垂直補完を望まれるでしょうし、批判は避けられない、開き直りとも言えなくはないですが、垂直に補完すれば、二重行政になるというのも事実です。

 しかし、基礎自治体が駄目なら、県が、県が駄目なら、最後は国が守ってくれるんじゃないかという、そういうのも必要なようにも思います。

 どうあれ、市民から距離が遠くなって、行政サービスがより酷くなるのではないか?弱い立場にあると切り捨てられてしまう大きな不安の中で、基礎自治体が充実しますから大丈夫ですよ、と言いもって、大改革に大旋回できるかどうかというのも問題です。



 さらに、気になるのは、中四国州という枠組みを知事が公言することです。我々を含めて、側が、夢として言うのは自由ですが、トップが、明言すると差し障りもあります。

 胸に秘めた思いとして留めておいて、県政の大方針として掲げるのは、一度控えた方が良いかもしれません。もちろん、切実な問題で、それを声高に言うのも理解できますが、他の方から見れば、まず、我が家の前から舗装します、に近いものがあります。
 道州制の議論の本質を曖昧にして、時として、自分勝手な主張に見えます。

 中四国州は、結果であって、目的は、道州制です。この枠組みの希望をトップが公言すること自体、目的を見失わせます。
 中四国州になろうが中国州になろうが、岡山市が州都になろうがなるまいが、道州制に進まなくては、日本が駄目になるという話です。


 ひとつには、今日改めて、雨の中、街中を徘徊し、改めて、広島平和記念資料館に行って、国際平和都市・広島への敬意をさらに深く感じたこともあります。

 吉備の文化で負けているとは全く思いませんが、政令指定都市になって、岡山市が広島市と同じになるわけでもないし、なる必要もないし、州都の議論についても、道州制の本質の議論とは、実は、異なるのです。

 もちろん、秘めた思いは強く持っていますが、中四国州、州都・岡山の公言は、道州制が本格的に動き出すまで、行政的にはしない方が良いように思います。


 大切なのは、例えば、岡山市が、倉敷市はもちろん、周辺の都市、また、県内の27市町村を名実ともに引っ張っていくだけの実力と威厳がある街であるかどうかということ、さらには、岡山県が、町村を守り、中国・四国の他県に対して、どんな貢献が出来ているかということだと思います。

 もちろん、そんなに立派な市でも、県でもなくても、私は、岡山を心から愛していますが。


 ともあれ、道州制の議論は、その3131 【道州制という名の「内戦」】で書いたように、物凄い話なのですが、日々の生活からは、ピンと来ない、しかし、極めて重要な話です。

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