2008年1月24日(木)
【どっちもどっちのガソリン税論議】

 寒いです。異常に寒いです。

 最近、異常に「こころ」が長い事をお詫び申し上げます。多分、視力が落ちたり、さっきまで、会合でゆっくりしていて、コインパーキングでバッテリーが上がって難渋していたのも、その影響ではないかと思います。

 ともかく、難問が多いということでしょうか。また、それだけ真剣に考えているのであります。



 さて、昨日、東京で、都道府県議員よる道路特定財源堅持の決起集会がありました。我が県からも、土木委員会所属の我が党の有志が出席されました。
 私も基本的には、それでも、道路特定財源は堅持しなくてはいけないだろうなぁ、という立場です。あくまで条件付き賛成です。


 ただ、それにつけても、この議論、泥沼化は避けられないと思います。

 一方では、暫定税率を維持しない場合の財源の確保についての説明が、曖昧です。
 一方では、なぜ10年継続なのか?なぜ、1リッター当たり25.1円なのか?そもそも、過去に、どう道路特定財源は使われ、今後、どう使われるのか?を明確にしていないように思います。

 どちらも、十分な説明責任を果たしていないように思います。端的に、どっちもどっちかもしれません。

 少なくとも、その試算をしているのは、官僚ではないのか?政治的な数字の根拠を明確に分かり易く国民に語ることが、どちらにも、必要になります。
 要ります、要りませんの一点張りでは済みません。



 ある意味で、これは、我が県の森づくり県民税に、似ています。県民一人当たり500円「徴収」することを先に決めて、その使い道を後に決めたような、細かい数字の積み上げがないのです。

 私は、民有林の間伐自体には反対ではないのですが、必要とあれば、一般財源で実施すれば良いではないか?という疑問を持っていました。



 おそらく、今後、道路特定財源が象徴的に無駄に使われている事例が、どんどん紹介されるでしょう。我が県にも、そう見える事案が、ないはずもないでしょう。

 貴方が余計に払った25円が、こんなに無駄に使われています!と、視覚的に訴えれば、情緒的に反応する有権者は、決して少なくないでしょう。一切無駄に使われていないというのは、いわゆる悪魔の証明です。世論をつくるのは容易いです。

 ただそのことが、福祉施策的な地域振興策としての側面を持つ公共事業の全面否定となれば、おそらく、地域間格差の解消など、今後も夢また夢になるに違いありません。

 税金は安いに越したことはありませんが、例えば、消費税を3%にします、という政党が出たときに、やはり、世論は賛意を送るのでしょうか?
 長期的に見て、本当にそれで、市民が幸せになるのかな?


 いずれにせよ、この議論は、地方議員に関係ないとは全く言えません。自民党としては、暫定税率堅持が党是ですが、一方で、道路特定財源が、どう使われてきて、今後どう使われる予定なのか?端的に、どの道路をいつまでに、どういう形で建設すると、幾らかかるのか?を明確にしていく必要があると思います。

 少なくとも、大雑把であれ、地方においては、それを示すことが可能なはずです。
 必要なら、胸を張って堂々と必要なんだ、と論拠を示して言えば良いだけのことです。

 いわんや、何十年も建設にかかっている都市計画道路、特に、岡山市が政令指定都市になる中で、象徴的な県道岡山吉井線の拡幅に伴う、三野公園の下にトンネルを掘る話など、この議論が直撃する話もあります。

 今、議論しておかないと困るのも事実です。


 既に予算組みしていますので、あてにしているモノが入らないと困ります、という単純な論理では、済まされません。


 そうこうするうちに、ガソリンが、リッター当たり130円に戻ってくれれば良いのですが、暫定税率を廃止して、やっぱり、155円に値上がりしたら、目も当てられません。

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 道州制について、御意見があったので、私なりの考え方を述べさせて頂きます。

 道州制の本質は、国あげての800兆円の借金がある中で、統治機構も変えなければ、国が破綻するということで、ある種の「革命」だと思います。

 ただ、機構を変えて本当に借金が減るのか?結局は、「民滅びて官残る」だけではないのか?常に、行政構造が。さらに多層化する危険をはらんでいます。


 一方、その中で、財政効率が強調され、本来政治が果たすべき役割、あるいは、今後果たさなくてはいけない役割を「自立」の美名の元に、民に放り投げる、あるいは、汗をかいた民の努力に、「協働」と称して、官が乗っかってくるそんな官の在り方には、疑問を抱いています。

 また、大都市圏集中、一極集中の国策に沿えば、地方は、このままずるずると疲弊するしかないし、長期で見れば、「国滅びて山河も無し」という危惧を持っています。
 いわば、官の質を変えるのが、道州制です。


 ところで、権限・財源移譲で、身近な地方自治体の行政サービスは、上がらなくてはいけませんが、これはむしろ、対人レベル、ソフト面の市町村といった基礎自治体の話です。

 県を広げた州の役割は、中国地方規模か、中四国州規模か分かりませんが、国際的な視野を入れながら、農業を含めた産業振興、交通体系の整備、空港、港湾、大学、災害対策・・・・を考えていくということで、民だけでは出来ない部分で、広域的、できれば専門的、機動的に、政策を打ち出していくということです。

 したがって、市民生活に、州の行政サービスが直結するイメージは少なく、州政府による行政サービス向上を言うのは、嘘であるし、それを言ったら道州制ではありません。

 ただ、基礎自治体の行政サービスが向上しなくてはいけない、というのは、道州制導入のひとつの「効果」であるとは思います。

 しかし、そこは、県が強調すべきでもありません。市町村への権限財源移譲は、今でも、どんどんできるのですから。州になって出来ることは、県でも出来るはずです。

 ともあれ、「県を無くした分、行政コストが下がりますよ」という、県の自己否定以外に、県が夢を語れば、そこに嘘もあるのではないかと私は思います。

 州のイメージは、現在の国の出先機関である経済局や地方整備局、農政局等々の仕事を受けるというものかもしれません。中国州経済局岡山支所に、県はなるということでしょうか。
 もっとも、下手をすると、行政の層を重ねるだけの結果になる危険をはらんでいます。



 ただ、最後は、国会議員の先生方が、霞ヶ関の官僚と本気で闘い、官僚機構を破壊する必要があります。

 そのためにも、外交・防衛等に国の権限が狭まることに対応して、国会議員を例えば現在の3分の1以下に減らす必要もあると思うのですが、それが本当にできるかどうかです。

 国会議員が、さらなる議員定数削減を公約に謳わない限りは、国は変わりません。

 また、県議会議員も、自らの首を締め上げていかないと、結果として、国の変革の阻害要因になります。

 要は、国においても、地方においても、議員次第なのです。



 中四国州という区割りについてですが、正直なところ、まずは、四国においては、四国州を目指すべきだと思います。四国だけでは、経済規模が小さすぎると岡山が言うのは、大きなお世話で、まずは、規模が小さかろうと、まずは自立する、中国州とは、お互いに自立した中で、強固な関係を築こうね、というのが、分かり易いと思います。

 岡山県の中四国州構想の過度な強調は、当面は控えて、まずは、道州制導入部分のみを強調すべきだと思います。

 さもなくば、中四国における道州制導入の異端児として、岡山県が、道州制導入の阻害要因になりかねない危険をはらんでいると私は思います。

 岡山が中心になるのだという発想が見え隠れしては、地方分権を目指す中で、州内の一極集中を謳っているのと変わらず、東京一極集中と大して変わりません。
 むしろ、近い分、近い地方都市には、ダメージがあると思われるかもしれません。

 残念ながら、中四国9県で、岡山県以外に、中四国州という枠組み、さらには、州都・岡山市に、現時点でたちまち賛同する県は、少ないように思います。

 思いは心に秘めながら、越えられるハードルをひとつづつ越えていく方がよいのかもしれません

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