2005年12月10日(土) | ||
【なぜ中心市街地を愛するのか】 | ||
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女子ラクロスの選手が来岡してます!!本日は、川崎医療福祉大学のグラウンドで、他県からの女子大生も来岡して交流練習会。夏から来た選手達と寒空の下の交歓は、未来への確かな可能性を感じさせてくれました。いよいよ明日、正午に、桃太郎スタジアムで、VS岡山女子との開会式です!!是非ご来場下さいませ!! 朝の公園清掃から大学の同総会の忘年会まで、つらつら考えるに、役に立たないのなら、中心市街地の中で、『蜘蛛の巣城』のように四方八方から矢を放たれ、「それでもこの街を愛している!」と断末魔の叫びを上げながら、壮絶な最期を遂げるというのも良いなと思い始めました。 忘年会の酔客の声を外に聞きつつ。 ======================================= ↓ 詳しくは 私は、岡山商工会議所さんが、以前出された「1kmスクエア構想」のコンセプト「都心は人が集まり住むところ」というが本当に素晴らしいと思います。 事業者、商店街、地域住民が三位一体で息づく場所が中心市街地であるとしたら、住むということが要件であるとしたら、人口減の中、再びコンパクトな街に戻すということも必要です。ある意味で、「不可逆性」との戦いです。 しかし、既に、これだけ街が拡張した状況で、新しい核が幾つも生まれてきています。便利になるという意味での活性化を願わない地域などありませんから、もう中心市街地は良いから、郊外の拠点整備に重点を置くべきだという意見が出ても、不思議ではありません。 「まちづくり三法」の総括がなされる中で、事実上本当に郊外への大型店舗の出店の自由化をした施策は正しかったのだろうか、しかし、今さらどうにもならないじゃないか、これからどうするんだ、政治の責任は極めて重いと思います。 しかし、今そこにある危機というよりも、いずれ持続不可能になりますよ、という感じで、真綿で首を絞めるように効いてきます。 私自身、郊外と言われる地域にも、今は強い思いはありますし、本当に選挙だけ考えるなら、中心市街地を離れて、それ以外を回る方が、効率的かもしれません。何よりも、心から信じられる笑顔が、本当に多くなってきました。 そういう地では、中心市街地の活性化、商店街の活性化に関心のない方が多いのも事実です。それは責められません。 ただ、中心市街地が私を捨てても、私は、中心市街地を絶対に捨てません。今後私がいつまで議員をさせて頂けるかは分かりませんし、様々なご縁で守備範囲が広がっても、格別の思いを持って中心市街地と関わりを持ち続けます。 なぜなら、私は、「中心市街血」という名の血が流れているからです。 だから逆に、様々な地域の血や思いを大切にもしたいのです。 そして、中心市街地の活性化というテーマを真正面から大きな命題に掲げられる議員は、そうそういるわけではないですから、ある意味僥倖であり、それだけ責任があるということだと思います。 ただそれ以上に、県議会議員で何ができるんなら?という命題にぶつかりますが・・・。落書きでも消しとれ・・か?くそっ。 我が家は、もともと電車通り(桃太郎大通り)に面した陶器屋で、佐藤陶器店という明治時代からの老舗でした。ただ、私が、中学校2年生の時に、自主廃業しました。 西川橋交番向かいの映画の看板の並びの駐車場になっている土地が、小売り店舗で、祖父母が暮らしていました。小学校5年生までは、店番をする母の横で、電車通りを行き交う人達を「店に入らないかなぁ・・・」と、思いながら見ていました。だから、私の中には、小売り商人の血が流れています。私は、陶器屋の倅です。 そして、附属幼稚園でしたから、14年間路面電車通学でした。毎日、中心市街地を眺めてきました。 突然の夕立に売台を取り込んだことや、祖父と店のシャッターを閉めていたことを懐かしく思い出します。電車通りの下の西川をくぐって魚を追いかけて行くのが、最大の冒険でした。 本当に辛い様々なことがあって、商売が立ち行かなくなり、何人もの人の手に渡った地は、今、平和町一番地区の再開発が進められ、やがて、店舗付のマンションに生まれ変わります。今、私は、それを支援する立場にあります。親父が知ったら、何と言うだろう・・・・。 何十年も駐車場であることは、実は心のどこかで救いでありました。子供の頃の思い出は、消えてしまうけれども、それでやっと片がつく、さようならが言える、今は、それを喜んでいます。その地に、これから暮らす人達が、本当に幸せであったら良いなぁと、心から思います。 ともあれ、私の中では、桃太郎大通りという名称ではなく、「電車通り」で、新幹線が通り、地下街ができ、西川緑道公園ができ、ドレミの街やワシントンホテルやシンフォニーホールの再開発ビルが建ち、昨今の再開発マンションが建ち並んで行く最後に、佐藤陶器店が本当に無くなるのだなぁ、と感慨深いものがあります。 いずれにせよ、この中心市街地には、どうしようもないほど思い出があります。 私が、生まれ、住んでいたのは、陶器店の倉庫があった野田屋町二丁目です。もちろん今は、人の手に渡っていますが、岡ビルの遊園地の前で、その頃は、遊園地が庭でした。並びには、「月世界」という大型キャバレーがあって、路地には、鍼灸士さん・・・。 あの頃、どうしてあんなにたくさんの子供がいたのでしょう?障害のある子供も、ごく当たり前に一緒に遊んでいました。風車屋のおっさん、金魚屋のおばさん、竹笛のおっさん、わらび餅とおでん屋のおっさん、紙芝居屋のおっさん、子供達も街の風情も、まさに下町でした。生活感が溢れる街です。 ニュー岡ビルの地下に、お化け屋敷が来たり、日曜日に、岡ビルの中を自転車で駆け巡ったり、爆竹でゴマダラカミキリを吹き飛ばしたり、多分亡父は、近所の「扇」という店に常に引っかかっていました。何かから逃げるように、極楽とんぼを地で行く人でした。 一方で、地域の学校に行っていないという疎外感も覚えています。隣の八百屋のお兄さんによく遊んでもらいました。『三丁目の夕日』が懐かしく感じられるのは、多分、野田屋町に暮らしたからでしょう。 再び、あの頃のように、子供達の笑い声が聞こえる街にしたい、公園で安心して子ども達が遊べるような街にしたい、と強く思います。あるいは、どこかでもう無理なんじゃないかと思いつつ。 今の平和町は、陶器屋の元倉庫の土地です。ここも難しい問題は、たくさんあったし、今もありますが、ワンルームのビルになっています。少なくとも、静かに人が暮らせる環境ではなくなりつつあります。商業区域ですから、致し方ないのですが。 中学2年生の頃には、当時の倉庫を改装して、母が、無認可の夜間保育を始めました。当時は、ベビーホテルという名で呼ばれ、全国で乳児の死亡事故も起き、社会問題化していました。思春期に、陶器屋でなくなって、友達に家業を言えなかった思い出があります。今でこそ、母が、行政からびた一文貰わずに、本当に困っている方のために頑張ってきたことを誇りに思いますが。 飲食業の方、看護士の方、夜の商売の方々のお子さんを預っていました。託児所は、母の体力の続く数年前まで営業しており、それで我々兄弟3人を大学に行かせました。父が個人でしていた不動産屋は儲かっていたのかどうか、よく分かりません。 ともかく、「マイフレンド」は、朝の7時過ぎから、夜(朝?)の3時まで営業していました。母は、いつ寝ていたのだろう・・・。 子育て支援、DV、男女共同、中小起業支援、おそらく、その頃、見た様々なことが、どこかで政治の原点になっているし、私が、今も夜の歓楽街を徘徊しない大きな理由になっています。心から楽しめないのです。 しかし、まごうことなく、この中心市街地で幾つもの夢を描き、夢に破れ、時には自分を恨んだ、ここが人生の舞台です。 附属中学校の帰りは表町商店街が、一方で、一宮高校は、奉還町の地下道を通るのが通学路で、奉還町商店街も身近に感じ、小学校6年生から中学校2年生まで当新田に住んだのと大学の4年間、さらには、独身時代、どうしても住んでみたかった伊島町での暮らしを除けば、常に、表町商店街やJR岡山駅を間近に感じながら、暮らしています。 1年8ヶ月朝刊を配った新聞配達所は、野田屋町にありましたし、リビング岡山は、当時田町にありました。代議士の秘書時代の担当学区も、JR岡山駅を中心に2kmぐらいの範囲でした。 中心市街地の活性化という言葉は、上っ面の言葉ではありません。象徴的には、関わってきた全ての事が人が、元気になることです。事業者が、商店街が、地域が、元気になることです。 ただ、しかし、今、中心市街地がむせび泣いています。未曾有の危機にあります。そしてもう時間がありません。 一昨日の答弁のように、あるいは、県行政は、即座にできることはないでしょう。私自身、何度無力感や脱力感に襲われたか、分かりません。当然ですが、何もできない自分を何が議員なら!といつも責めています。誰が、いつ、どうやって、中心市街地の地図を描くのか? どうあれ、今、再び地域が思いを持って立ち上がらないと、中心市街地は、本当に駄目になってしまいます。そのためにも、今は、テーブルが必要です。 時間がありません。 それでも、このマンションの建設ラッシュをどう見るか、いったい今後街に対してどんなニーズが出てくるのか、声がまだ聞こえてきません。 一方で、父は、5年間人工透析を地元の総合病院で受け続けていました。幸い最後の最後まで自転車で一人で通うことができました。近くにこうした病院があることは、本当にありがたいことです。高齢者の方々が入居するマンションが建ち並ぶ現在、今後益々重要になることでしょう。 ただ、詳しくは書けませんが、昨春に、ICUで、父が亡くなった時、そして、霊安室に運ぶ時、できることなら建替えて欲しいなぁと思っていたのは事実です。 高齢者そして子ども達が暮らす中心市街地のために、医療施設は絶対に必要です。要らないなどと誰も言っていません。 一方で、私は地域の温もりというのは忘れたことはありません。初陣の選挙の決起大会は、父や弟や親戚中が通った当時の深柢小学校体育館であり、妻も、高校の同級生という理由で、応援演説をしてくれました。多くのこの街の方々に、私は支えて頂いています。最初の最初から。 私自身のルーツも思い出も、全てこの街とともにある、どうしても、地域の「コミュニティ」そして、「安全」を守りたいと強く願っています。そのために何ができるのか。 お一人お一人の笑顔が浮かんできます。その笑顔を崩したくありません。誰がなんと言おうと、私は地域の方が大好きだから。おこがましいですが、その方々の誇りは、守りたいのです。 そして、商店街は、とりわけ青年の方々は、少なくとも私は、勝手に「仲間」であると思っています。なぜなら、私は、陶器屋の倅だから、通りを行き交う人達を見る気持ちが少し分かるから、中心市街地で商売をする同じ血が流れていると思うから。だから街をどうするか考える、その思いは、同じだから。 なによりも、子供達のためにも、商売人の誰もが、佐藤陶器店のようにはなって頂きたくはないと強く願っているから。 そのために、私ができることをさせて頂きたい、でも、根底にあるそんなセンチな思いは、大きなお世話で、誰にも分かって貰えないかもしれないですが。 私は、全てを守りたい。私がこの街に守られたように。 そして、堂々巡りを繰り返しても、そのための答は幾つもありません。そして、もう時間がありません。中心市街地の悲鳴が聞こえます。 しかし、あるいは、私は、やはり何もできないのかもしれません。 いつかきっとこの中心市街地に暮らす誰もが、お互いに笑顔でいられるように。願うことは、本当にただそれだけです。なぜ中心市街地を愛するかと言われれば、たくさんの思い出があり、好きな人がたくさんいるからです。 私は、きっとどんなところでも、時間をかければ愛することができると能天気に信じています。本当に嫌な人間というのは、かえってそういないものです。皆、事情があるのです。 個人的などうしようもない思い出やセンチな思いで、中心市街地でもがいてみます。県議会議員が何の役に立つのかと自問自答し、自分の中ですらまとまらない思いに、戸惑いながらも。 どうあれ、もう答が必要な時期です。 | ||
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