2005年11月6日(日) 【安心して失敗できる社会】

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 起きたら7時過ぎの寝坊で、京橋朝市も、今さら、のこのこ行けず、赤磐市での「輝いて!おかやま大会」のオープン競技の精神障害者バレーボール開会式に、敢えて、出席させて頂きました。紹介の時には、「楽しんで頑張って下さい!」と申しました。
 知的障害者の出場者が多いのに対して、精神障害者の種目が一競技しかないと言うのは、かなり深い意味があります。また、そろそろ、「障害」という呼称は、止めるべきだと思います。

 そこから、倉敷に飛び、山陽ハイツで、岡山県建設労働組合青年部文化祭。建設労組は、いわゆる大工や左官をはじめ、一人親方や中小企業の方々の集まりで、景気の波が直撃しています。最低賃金のアップ、注文木造住宅の需要が高まるための施策が求められています。我が家は、一生借家かなぁ・・・。
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 そこから、岡山県学童保育集会へ。来賓に、国会議員の先生方が逢沢自民党幹事長代理はじめ6人もおられたので、次世代育成男女共同参画特別委員会委員長としては、学童保育にまつわる課題を述べて、国への陳情のような来賓挨拶をしてしまいました。産めよ育てよと言うのなら・・・。
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 記念講演は、ヤンキー先生こと義家弘介さんの恩師・安達俊子さんでしたが、余市高校から青少年自立支援センター「ビバの会」に至るまでの時代の中の子ども達の変化を言われましたが、その中で、子供達が、「安心して失敗できる場所」が必要であるという言葉が、印象に残りました。

 ラベリングのきつい日本社会において、勝ち組み・負け組みという二分化が進む中で、失敗のない人間(失敗がないこと自体が、大失敗だと私は思いますが)が勝つのなら、益々、殺伐とした温もりのない社会になって行くことでしょう。
 しかも、「ひとへに風の前の塵に同じ」、栄枯盛衰は世の習い、勝者も勝ち続けることはできないのですが・・・。

 ただ、「やらいでか」と挑戦できるのは、また、「傷つき打ちのめされても立ち上がる力」を持てるのは、再チャレンジが許される社会だからこそで、失敗が許されない社会では、臆病に小さくなるしかない人間だっているのです。
 逆に失敗の経験が、次の挑戦の糧になります。いやぁ〜、失敗、失敗と笑ってりゃ良いのです。

 しかし、どんなことがあっても絶対に守られるのは、本来は、家族であり家庭のはずです。絶対的な愛を確信できるのは、親子であり、家庭であるべきです。 心が帰る場所があるゆえに、自立できるのではないでしょうか。
 そこが壊れてしまった今、青少年は、「安心して失敗できる場所」を外に求めるしかありません。

 一方で、ある意味、家庭のような学童保育は、「安心して失敗できる場所」であるという指摘は、なるほどなぁ、と思いました。
 居場所以上に帰る場所が欲しいのですが、学童保育の子ども達は、「ただいま〜」と言うものなぁ。家族や家庭が、二個あるようなものです。

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 まず、精神障害者バレーボール大会について、
 そもそも、国体が、第60回なのに対して、全国障害者スポーツ大会は、第5回というのは、昭和39年のパラリンピック東京大会を受けて翌年から開催された「全国身体障害者スポーツ大会」と、「国連・障害者の10年」を記念して平成4年から開催された「全国身体障害者スポーツ大会(ゆうあいピック)」が、平成13年から統合されたからです。ここに、精神障害者という言葉はありません。

 また、今年2月に、長野県で開催された「スペシャルオリンピックス(SO)」は、記憶に新しいですが、この大会は、知的障害者の大会でした。ある意味で、精神障害者のスポーツというのは、一番光があたらなかったところです。


 こうした流れの中、オープン→公開→正式となる流れの中で、唯一バレーボール競技のみが、大分国体(来年兵庫→秋田・マスコットは、スギッチ!!→大分)から正式種目となります。
 もっとも、正式種目の場合、選手は、精神障害手帳の交付を必ず受けているという要件になるのかどうか・・。また、選手総枠が決まっている中、知的障害者の競技参加者数とのバランスという微妙な問題もあるようです。

 いずれにせよ、精神障害者スポーツとしてのバレーボール大会は、様々な事の突破口になります。


 また、障害者スポーツ大会の目的には、私は、障害への理解ということが、極めて重要であると考えていますが、そういった意味では、このオープン競技開催の意味は、非常に大きいです。

 精神障害という障害は、実に難しいです。態様が様々である。境(性格、気質、病気)が明確でない。波がある。様々な減免がなく、障害者手帳を持つことのメリットがないため、障害のある方はもっと多いはずが把握できない。本人も家族も隠し、プライバシーが問題になる。視覚的でないため、障害であると、本人も家族も認め難い。発症が、思春期移行で、高齢化した家族が対応する事になる場合がある・・・・・

 精神障害者スポーツ大会は、実際に行って、誰かに言われれば、あぁそうかなと思う普通の大会ですが、以前は、本名公表や写真掲載をタブー視する傾向すらあったと言います。
 そう言った意味では、選手や家族の方々は、いろんな面で頑張っておられるということです。たいへんなことです。
 彼らが楽しそうにプレーする姿が、本当にいろんな事を伝えてくれます。

 私は、個人的には、向精神薬を飲んでいる人など、ざらにいると思いますし、誰だって少なからず、性格はおかしいですし、私が知る患者の方々は、己の分をわきまえず毎晩飲み屋で管を巻く阿呆な議員よりも、よっぽど、真剣に物事を考え、人間的にも繊細で、人に優しく自分に厳しい、人間的に素晴らしい方であると認識しています。
 過敏であり、優しすぎるのかしれません。

 また、内部障害ということで、素因や要因が分からないわけですから、誘因があれば、誰にでも、普通に起きる障害であると考えておくべきです。


 しかし、これからの現実も厳しいものがあります。障害者自立支援法は、いわば、身体も、知的も、精神も、障害で一括りにして、原則1割の利用者の負担を求めるものです。
 ちなみに、実は、現在の県庁の所管は、前2者が、障害福祉課ですが、精神は、健康対策課ですが、たちまち、役割分担が問題になります。
 いずれにせよ、就労という側面からすれば、現実問題、1割負担の厳しさは、精神障害者には、大きな痛手になるはずです。

 郷土のチームの活躍を見ながら、ユニバーサルデザインやバリアフリーという言葉と精神障害について考えていました。
 同時に、可能性を決めつけて、高みに立つような、「障害」という言葉が、なんとも不愉快に思えてきました。だいたいが、対比語が健常者というほど、誰も皆、健全なんか???他人事??
 一方で、頑張る障害者の姿に、むしろ苦しむ障害者もいるかもしれないと、思いを巡らせたりもします。

 障害者スポーツ大会をご覧になって、是非、「障害」という言葉の意味を考える機会にして頂ければと存じます。どうあれ、最後は、必ず、「勇気」が貰えるはずです。

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