2009年9月19日(土) 【汚れた五百円札】 | ||
自民党の総裁選挙が始まりました。今回の大敗の総括や、天下国家論や自民党の進んでいくべき道が示されたとは思いませんが、公開討論会をTVで拝聴しましたので、私は、世代交代・派閥解消に、相応しい候補に、一票を投じます。
ただ、以前なら、総裁選挙イコール総理総裁選挙でしたが、所詮は、野党の党首を決めるだけのことと、党員の方が白けられて関心が低いとすれば、残念で、投票率の方が気になります。 今回は、県連の党再生会議にはメンバーとして加わりませんが、2年前の参議院選挙敗退後に、私が起草した『臥薪嘗胆』の内容が実行されることを望みますし、その中にある街頭演説の強化については、率先して実施します。 県連レベルでは、突きつめれば、党再生と議会改革とは同義の部分もあります。ま、なんでもやってみましょう。 本日は、朝一で、岡山市立中央中学校体育館・特別教室棟落成記念兼創立10周年記念式典。 丸の内中学校と旭中学校を統合して、平成11年4月1日開校したということで、私の県議会議員と同じ歩みになります。10年経って、円筒校舎は無くなりましたが、待望の新体育館の方は建ったけれども、私の方は・・・。 これから益々、中央の名にふさわしい学校の発展を祈ります。 その後、赤磐市赤坂に飛び、特別養護老人ホームの開所式。 素晴らしい天気ですが、ともかく連休中、できるだけ新事務所に、細々と運べるものを運びます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ↓実にどうでも良い話が続きます。回顧録ではなく、卒業文集のような気持ちです。あと10日で、「こころ」の発信は、10年続いた北区平和町からではなく、南区泉田からになります。 長いのは、ある種の時期的な病気です。すぐ治ります。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 平和町北部町内会も、秋祭りには、だんじりや御輿が出て、岡山神社まで行くのに、こちゃえ〜こちゃえ〜と言いながら、わざわざ中心部をグルグル回って、他の町内と元気さを張り合うような楽しみがありました。 子ども達にとっては、ご近所の「田中のお菓子屋」さんから御菓子の袋が貰えるし、陶器店で祖母は、祭り寿司をつくっていて、錦糸卵のつまみ食いをするというのが、私の楽しみでした。 加えて、実際は、我々は、野田屋町の陶器店の倉庫がある方に住んでいたので、野田屋町の子供会からも、御菓子を貰っていました。 しかし、そもそも、幼稚園から岡大附属だったので、地域の子ども達と実は面識が無い、浮いた感じを自分では持っていましたが。 地域の祭りは、楽しくも、淋しくもありました。 そんな思いを自分の子どもにはさせたくない、そういう気持ちが強くあります。 まだ「うらじゃ」の影も形もない頃、電車通り(桃太郎大通り)では、城下まで歩行者天国が行われていました。基本的には、パレードがメインのお祭りでした。 それは、春だったのか夏だったのか、記憶は定かではないのですが、わけの分からない亡父が、あくまで遊びですが、朝6時頃から、「祭りのあとだから、お金が落ちとるはずじゃ。拾ってけぇ。」などと、小学生の我々兄弟に言い出しました。 当時は、まだ日々のお金に困っていた時期ではないはずですが、「なんで朝っぱらから。あるわけねぇじゃねーか」と、ひととおり、祭り会場を回って、家に帰ったら、「落ちていないわけがめーが!」と、今度は母親が出動し、小一時間後、誇らしげに、汚れた岩倉具視の500円札を拾って帰ってきました。 その後、警察に届けたかどうかは確認していませんが、こういう一家の恥曝しのようなエピソードの親の教育から、我々は、いったい何を学べば良いのでしょうか? ひとつ言えるのは、「なんとかなるんじゃないか、どうやったって、活路はある。」という確信です。まったく根拠のない楽観主義。 その後、陶器店は自主廃業し、中学二年の時に、我が家の家業は、陶器屋から、陶器屋の倉庫を改装した昼夜保育園になりました。 平和町という立地から、近隣に、夜のご商売の方々も多く、また様々な事情で、子どもを預けて働かなくてはいけない方が多かったこともあり、行政は無関心でしたが、明らかに社会的な要請は、ありました。 いわゆる無認可保育園として、それは、母が60才過ぎるまで続きましたが、本来は田舎のお嬢であった40才前後の母がよくやったもんだなぁと、今さらながら感心します。考えようによれば、起業しているわけですから。 朝は7時から、真夜中の3時頃まで、よく体力と精神力が持ったもんだな。息子が3人もいましたが、亡父を入れれば、実質4人の子どもを育てるようなものでした。 ところで、なぜ、私が夜の街を徘徊しないかというのは、こうした家業の影響もあります。皆、たいへんなんだろうなぁというのが、先に来てしまうのです。 一方で、思春期の頃ですが、いろいろ思い悩みもしましたが、そこで見てきた様々な社会の矛盾が、子どもに襲いかかる様をなんとかしたい、結局、私の政治的原点は、そこにあります。 こういう場合、共産党か社会党に行きそうなものですが、なぜか自民党にいるというのが、これもまた、不思議な御縁です。 ある意味、逢沢代議士の秘書であった以外に、今までの自民党的な素養は、私にはないんじゃないか?と、いつも自分で感じるところです。子どもの頃の秋祭りのような疎外感までは、ないですが、なんで、私が自民党なんだろう。 多分、私の考える自民党は、真正保守政党だというのは、あとからついてきた理屈で、「義理と人情と自己犠牲」の政党、さらには、「赦しの政党」です。 甘えと言えば甘えですが、底意地が悪くない、気の良い部分があります。だから、負けるのです。ゆえに愛することができます。 ただ、私が感じるのは、小泉政権誕生以前に、地方議会においても、自民党の中で、「自己犠牲」の部分が全く通じない変化があったように思います。勝ち続けて、負けてきた人が減ったのかな。 だから、痛みの声が代弁できなくなったのです。でも、自分が負けたから良いじゃないですか。国民政党の原点回帰です。 これからの自民党は、大丈夫です。・・・多分・ね。 ともあれ、ヤクザよりヤクザな部分は、元来自分をろくでもないものと思っていて、自分を放り投げることを厭わないから。負けることは恐くないし、泣いてから強いのが子供の喧嘩だと思っています。 ただ、私の家族は、気の毒だと思います。特に、妻。かわいそう。 引っ越し中の大音量は、馬場俊英=『センチメンタルシティ・マラソン』 http://www.youtube.com/watch?v=DzTKvJuhKrE | ||
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