2003年9月8日(月) | ||
【ロシア特別編11 『バラの学校』】 | ||
ロシアからのFAXでの原稿送信はこれが最後になります。まずもって愛妻に心から感謝したいと思います。まさか特別編が11までいくとは思っておりませなんだ。このペースでは日本にいるより多いです。
う〜ん、ここまで無茶とは。 本日午後にはサンクトペテルブルグの北西部の『バラの学校』を訪問しました。正確には、サンクトペテルブルグ市立第83学校で、やはり周辺をマンション群に囲まれた中庭のような形で学校が建っています。 外観はお世辞にもきれいとは言えませんが、中はきれいです。いわゆる総合的な学習の時間のような形(1週間に2時間。その他、遊びとして、カラオケやコーラス、折り紙など。)で、日本語教育がなされているわけですが、これは、ロシアの国策で、モデル指定校になったとかいうわけではありません。 先の校長の日本語ができる男性の友人が亡くなって、先の校長が、日本語を勉強され、学校にも、日本語教育を入れられたということで・・、どうも恋物語?に由来するような・・・・?? この学校では、1993年8月31日から日本語を正式に学習課目として取り入れており、言語はもちろん、日本の歴史や文化も学んでいます。 例えば、国際日本語コンクールや世界子ども愛樹祭コンクール(福岡県矢部町)でも優秀な成績を修めています。 サンクトペテルブルグ市が、大阪市と姉妹都市であったり、また、青山学院大学の学生とも、なにがしかの連携があるようでもあり、実際に日本人も度々訪ねているようです。 いずれにせよ、ロシアでは随一の日本語教育が行われている学校で、子供達も大きく外さない、しかし美しいイメージを日本に対して持っているようです。ありがたいことです。 子供達の笑顔を見ながら、我が子の時代には、しっかりスクラムが組めるような気がしました。 これは、ロシア人が概して日本人に対して悪いイメージを持っていないことの象徴のようでもあり、多分、いずれ岡山が東京で会うことになるであろうデニスを含めて、ロシアは、中国よりも遥かにつきあい易いという印象までも持ちました。 ちなみに、27歳のデニスは、日本に来る直前でバイトで通訳をしていました。実は、ミサイル防衛に関して研究しているため、かなり手を抜き、実にいい加減な仕事っぷりでしたが、非常に切れるロシア青年です。 近々に日本の政策大学院大学に来るということで、必ず岡山に招きますので、請うご期待。実に、ひげがあやしい男です。 一方、特に、北朝鮮ルートでもあったのか、韓国の財閥がかなり進出しているように感じましたが、環境問題(5種分別すらできていない)、自動車(ボロボロ)、住宅(一軒家がない)等、いくらでも需要が発生する国であり、北方領土もさることながら、日露平和友好条約をとりあえず早く結んで、対露は、対米同様にパートナーにまでなるぐらいに力を入れていけば良いのではないか、そのように強く思います。 もっとも、橋本ーエリツィンで、良い方向に行きかけたのを某議員の○○ハウスで、ロシア交流の国家予算も棚上げになったわけです。 そのことは、文部科学省所管で、森喜朗元総理を会長とする今回のプログラムを主催した「世界青少年交流協会」の財政にも、大きく響いているわけで、これで、様々なことが、数年は、遅れたでしょう。 私達は、ロシアを知らないだけなのです。もちろん、総合商社は、地の果てまでも、どんどん行かれていますが。 正直に書いて、県議会議員の立場で、対露に関して、今何ができるのかと言われたら、たちまち答えは出ません。即効性はないが、持続性がある大きな刺激です。 あるいは、ロシアやサンクト・ペテルブルグを走っていたトローリーバスや路面電車をふと思い出したりすることがまた財産でもあります。 ただ、今回「世界青少年交流協会」のメンバーとして参加させて頂いたご縁を大切にして、何か岡山とロシアを結びつけたい、そのように強く思います。それは、ひょっとすると、このサンクト・ペテルブルグに、もう一度来たい!!というのが本音かもしれませんが。 あぁ、真夜中の0時に、この街を流れるネバ川の「はね橋」が上がるのと夜景を見に行く、午前2時までのツアーがあります。これからそれに、のこのこ出掛けます。 白夜の季節は、とっくに終わりましたが、建都300年のこの街は、この街出身のプーチン大統領の批判されるほどの肩入れで、すっかりお色直しをして、夜には、様々な名所が、ライトアップされ、美しく染まっているのです。 明日は、ロシアを離れます。 | ||
Copyright (c) 2003 SHINJI SATO Inc. All rights reserved.satoshin.jp |