2000年8月13日(日)【北欧話 学校と就職・自立】

 昨今の日本では、超経済不況もあって、いわゆるフリーターが、ひとつの職業的立場として、認知されつつある気がします。しかし、このことは同時に、学校教育の目的と社会生活が、少しもリンクしていないことの証左であるとも思います。学校で学んだことが、社会では役に立たないのです。

 かくいう私も、政治経済学部政治学科卒業ではありますが、大学在学中は、キャンパスよりも寄席に通っていましたし、偶さかこの「職業」に就かさせて頂いてはいますが、「学士」が、役に立っているとも思えません。
 私は、あんなに精神的に苦しい青春時代には、2度と戻りたくありませんが、多くの文系学生にとって、大学は、モラトリアムか無目的の遊び場で、楽しい思い出置き場です。結果として、卒論すら、意味がありません。


 翻ってデンマークでは、あらゆる職業に就くのに国家資格が必要です。そのためにも、学生時代に自分が、将来どんな職業に就くのか明確に目標を設定し、認識する必要があります。

 そもそもデンマークでは、多くても1クラスが25人で、1年生から9年生まで、同じクラスメートのまま、進級します。その結果、親同士も知り合いで、学校やクラスの問題の解決に当たります。(ちなみに、就学前に幼稚園生が、団体生活や学校の環境になれるためだけに、学校に通います。)
 そして、詰め込み教育をせず、7年生まで成績表すらないそうです。そこから、自分の興味に沿って進路を選択します。

 そして、普通高校から、専門知識を身につけるために進学する生徒は、卒業試験の点数で、大学の入学が決まり、再挑戦(浪人)は、できないそうです。
 また、就職する生徒は、卒業前に希望する職種の「親方」と徒弟関係を結び、2週間の実務経験を経て、国家資格を得て、就職します。店員になるにも国家資格が必要で、なくても働けはしますが、出世と敬意を捨てることになります。逆に、資格があれば、あるいは取れば、いつでも働けるのです。



 教育のキーワードは、「自立」、しかも「社会人としての自立」だと思います。家庭も地域も学校も「社会人として自立させるための教育」をしないといけません。
 今、それが、なぜ必要か。それがいつ、いかなる形で役に立つ可能性があるのか。それが、わからずしての教育はありえないと思います。手段と目的が明確でない教育など自己満足、自己陶酔、趣味の世界です。

 なぜ、算数がいるのか。論理的な思考を身につけるためです。なぜ、歴史がいるのか。時間的な思考(原因と結果)を身につけるためです。なぜ、理科がいるのか。実験的な思考を身につけるためです。・・・・・全ての課目は、趣味の学術を知識を教えるためではないのです。
 知識はいつか忘れてしまうでしょう。しかし、思考方法は忘れない。それが、社会人になって役に立つはずなのです。(そのためにも、まず教師が立派な社会人であってほしい、象牙の塔に篭った学者もいらない、と思います。)



 「自立」。
 これは、福祉についても同じ発想でした。デンマークの老人ホームで見た風景もそうでした。ともかく彼らは立たせようとする。できるだけ、自立する方向に持って行く、そのための高価な機具の給付は、惜しまないのです。
 あるいは、無理かもしれない。しかし、一人の人間として、社会人として、ほんの少しでも「自立」に近づける。それが、個人の尊厳に資するのだと思います。そのための、バリアフリーでしょう。憐れみでない、「立つ」ための福祉が必要なのだと思います。


 北欧は、福祉国家というイメージがあります。しかし、それは、強い「自立」への志向が、あって初めて成り立つものなのです。

 私は、教育と福祉の目標は、「自立」である、と思っています。その尺度からするとずいぶん問題がある気がします。日本はこれでいいのか!?



 また吉備高原都市に行ってみました。鳴滝ダムのそばの21世紀の森(森林学習展示館・月曜休)は、近場の穴場かも?お子様の夏休みの課題にいかがでしょう。

Copyright (c) 2000 SHINJI SATO Inc. All rights reserved.satoshin.jp