【報告事項】  《第4回都道府県議会議員研究交流大会》

 一昨年も出席させて頂いた同研究交流大会であるが、特に、二元代表制のもとの議会・議員ということでは、多くの都道府県議会議員が行き詰まりを感じている中、議会の本来の役割を再確認できる非常に良い機会である。同時に、しかし、議会の理想と現実のギャップにも、かなり苦しむわけであるが…・。
 今回第4回は、「地方の自立と議会改革〜多面的に議会の役割を探る〜」とのサブタイトルで、基調講演の後は、分科会に分かれての研修であった。私は、第一部会「住民とともにある議会」を選択し、ややトンチンカンなコーディネータが残念であったが、非常に勉強になった。(資料1)

 基調講演は、「日本の政治経済の課題と住民意識」と題して、小林良彰慶應義塾大学法学部教授によるものであった。講演の要旨を書くだけでは、何の意味もないので、氏の発言の順序も組み替えながら、主観的的な意見も随所に交えながら報告する。基本的に、選挙を分析するのが専門だけに示唆に富んだ話であった。しかも、各部会のプロローグを兼ねていたあたりはさすがである。ただ、私は、氏の「政治」の定義は、理解しかねた。

 以下(資料2)。
 但し、資料そのものについての説明については、資料参照。主に資料にない部分の講師の発言についてまとめる。

 ○世界の政治学者は、5万人。特に、アメリカに3万人属しているが、その多くが選挙の分析をしている。選挙を中心とする政治学が重視されるのは、有権者が議員を通じて自分達の意見を正確に反映できているか、民主主義はまずはじめに政治ありきで、次が、行政なのである。しかし、日本では、都道府県議会レベルの選挙の分析は行われていない。

 ○小泉政権をなぜ当初有権者が支持したかは、特に国会でなく国民が直接選んだような錯覚による@親しみ、何かを変えてくれそうなAダイナミズム、ある程度のB連携、協調性があると感じたから。ゆえに、議員も、それをアピールすればよろしい。

 ○無党派層の投票行動を分析すると要するに、常に財政再建を指示する。しかし、市町村合併は後にコストがかかってくるが、それに見合う権限、財源の以上があるのかどうか、国と地方の役割分担の話が、規模により採算性の話になってしまっていないか。
 →ゆえに、第3部会「市町村合併の進展と都道府県のあり方」

 ○小泉総理は、施策者であり思想家のようであるが、基本は、福田派。民意としては、憲法改正議論と9条改正議論は必ずしも連動していない。


 以上は、一般論であり、さしておもしろくない。なるほどと首肯したのは以下である。


 ○憲法93条は、議事機関として地方議会を設置するとする。確かに、2000年4月の地方分権一括法施行前までは、機関委任事務が多くあり、地方自治体というより、霞ヶ関に責任があり、住民の意向を汲み取る地方議会は軽視されていた。これは、まさに、行政が先にありきの事態である。

 ○しかし、地方分権一括法は、大転換であり、地方でもやろうと思えばかなりのことができる権限と責任が含まれている法である。これに気づいた何人かの知事がいて、彼らは、地方自治体が、霞ヶ関ではなく、住民に対して責任を負い、直接住民とパイプを持とうとし始めた。これに伴い、本来議会も、もはや行政に住民の要望を取り次げば良いという存在ではなくなったはずである。
 しかるに、議会改革は進まない。知事、首長は、メール、FAX、住民集会で、直接行政に住民の意思を反映させようとする。さらに、施策を提示してパブリックコメントを募集し、行政監視機能を住民に委ねる首長も出てきた。すなわち、二元代表制のもと、議会の立法・監視機能が、行政主導で、奪われてしまっている。

 ○地方議会も危機感を持つべきなのに、相変わらず妙な法律を生かしている。いわく、議会の招集権を首長が持つ地方自治法11条1項。招集日も首長が決め、議会を招集する間がないとして、専決処分が300件近く行われている。なぜ、議会の招集権を議長に与えないのか。
 ←言われてみれば、定例会の最初に、知事が、議員に向かって、「ご多忙なのに集まってくれてありがとう」というようなことを毎回言うのは、非常におかしなことである。半分は、本会議や委員会は、来るのが当たり前じゃないかと思っていたのだが、そうではなく、もともと何であんたに言われるんだ?と思わなくてはいけなかったのである。ちなみに、委員会は、委員長が招集している。また、同11条2項、議長には執行権はない。

 ○さらに、149条6項、議会棟の管理権は、議会側にないので、委員会室や廊下の秩序維持権は、首長が持つ。

 かように、法律が二元代表制のものになっていないのに、なぜ法律改正を要望しないのか。
加えて、運用上の問題としても、例えば、質問の事前通告制など、傍聴者からは茶番である。なぜ、議会の権限をみすみす手放すのか。
 ←これもしごくごもっともである。私も当選してから議会のしきたりと認識はしているものの、毎回質問の2,3日前には、関係当局との間に入る財政課(事業は予算を伴うので、最終的には、必ず財政課を通るのためであるが、これも妙な話ではある。)との間で、現行の一字一句を詰めて「定稿」し、本番は、それをいかに時間内に読むかだけが問題になるというのは、いかがなものであろうか。少なくとも、緊張感を伴うガチンコということにはならない。それでも、半歩でも進めることと引き換えに、調整の段階で折れたりするのだが、実際は、いかにも、県民には、不透明ではある。ただ、一問一答ということになれば、かなり議会側のスキルアップが必要であろう。少なくとも、電話で聞けば分かるような質問や重複質問は、激減するだろうが、それでも、しばしば議会の進行は、ストップするであろう。  また、私の中で理解に苦しむのは、慣例として、我が議会の議長が1年交替であること。個人的には、二元代表制のもと、知事と張り合おうというのなら、最も優秀な指導力、調整能力に長けた議員が議長を何年でもといえば問題はあるが、せめて2年は任期が必要なのではないだろうか。実は、それは、委員長でも同じで、最低2年は任期がいるのではないだろうか。

 ○議員発議による政策条例の制定が必要である。現在全国に、2868人の都道府県議会議員がいるが、昨年の議員発議条例は139件、知事の発案は3235件、予算がらみまで含めれば、8906件。条例を出す時に法的な齟齬の問題に対応するため、衆議院法制局、参議院法制局のように、地方法制局の設置を求めるべきではないのか。さもないと、いよいよ地方自治体の施策を作るのは知事であり、議員は、住民の意向を伝えるパイプにすぎないと住民には映りがち。立法権は議会にあり、政策を作るのもまた議会であるということを住民に正しく理解してもらう必要がある。
 ←この点、地方振興局から県民局への再編の議論の中で、行政側が地域住民と協働しようとする協働委員会が結果的にぽしゃったわけであるが、一方で、十分な情報を出さず住民に追認させるだけだろうと疑われる直接民主主義的手法にも問題はあるが、議会サイドとしても、本来は、住民との協働委員会的なものを作っていく必要があるのではないだろうか。議員の方が、地域住民の声をより反映しているという論拠は、選挙を経た代表であるということだけれども。

 ○住民は、都道府県議会議員をどう見ているかという、氏のデータによると、知事には劣るが、国会議員よりも好意的に見ており、しかも、議員発議の条例が多い都道府県議会の議員をより好意的に見ているとのこと。行政に対して議会をないがしろにしていると怒るのではなく、議会こそ、住民とコーディネートする役割、あるいは、住民に対して、地方自治の教育者としての役割が求められる。

○民主主義は、政治が先にあって行政は後に来るもの。地方の自立が求められているが、議会が、条例制定権等を十分に活用してはじめて地方の
 自立がある。

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こういった問題意識から、第1分科会「住民とともにある議会」へ。


 第一分科会「住民ともにある議会」は、おそらく、どの分科会よりも盛りあっがたのではないかと思われる。けだし、パネリストに一人が、長野県議会議員であり、フロアに、高知県議会議員がおられたからである。
  惜しむらくは、なぜコーディネータを地方自治に全く詳しくなく、さらに、コーディネート力のない方にしたことである。コーディネータの基調講演もどきの報告は、(資料3)参照。資料の通りなので、まとめないが、氏の発言で光ったのは、「二元代表制のもと本来の代表は議会である。なぜなら、一人の人間(首長)では、複雑な民意を体現できないから」。
 それは、もっともなことである。十分な議論の上、複雑な民意、その利害を調整するのが、本来の議会である。

 さて、長野県議員の話は、深刻である。そこに、破壊と混乱があると言う(資料4)。二元代表制を全く理解せず、議会を仮想敵として、執行権を大きく逸脱して、大衆的な民意の上に、ばく進する知事との戦いである。少なくとも、鳥取県知事のお話には、議会に対する敬意と叱咤激励があったが、長野県知事には微塵もない。悪い県議会議員を選ぶ住民が悪いと公言する知事も珍しい。
 「改革派と称する知事のいる議会は活性化するか?」との問いに、同議員は、活性化はするが、県民は不幸であると言う。修復不可能なまでの議会VS知事の4年間の戦いの中で、お互いに、直接県民に理解を求めようとする、その過程がサービス合戦となりエスカレート。その一環として、県議会は、昨年、政務調査費の使い方を何もかも総べてオープンにした(政務調査費マニュアルの作成)のだが、これは、知事から訴えを起こされたからで自発的なものではない。どうあれ、コンパニオン付の宴会に使っていたという議会に非がある。
 また、最大の出血サービスは、議員定数削減だが、残念ながら住民にほとんど知られていないとか。
 また、長野県議会は、条例を作る間がないというのも、毎議会、知事が、根回しも何もなく(TV、新聞で聞いたことを想像しながら)、ガチンコで無茶苦茶に投げて来るボールの判定に追われるのが精一杯。
昨春の選挙で、半分が新人議員として出てきたが、既に「ひどい知事だ」と、知事の味方が増えていない。
 また、ガラス部屋も使い分けして、必ずしも、全部透明にしているわけでもなんでもない。等々、嘆き節が延々と語られた。これに、フロアの高知県議会議員が、「高知県も同じだ!」と呼応する状況であった。

 そもそも、長野県知事のキーワードは、「コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命」。「快適生活県おかやま」よりは、十分に分かり難い。2年前の不信任のメインは脱ダム宣言に関して。コンクリートダムは駄目としたが、代替案は、可動の遊水池。脱ダムの代案は、49m穴の空いたダムだだった。また、2つの廃棄物処理場が知事の反対でぽしゃる。来年2月のスペシャルオリンピックスの開催費用28億円の資金が不明等々。内容の真偽は分からないし、かなり議員の主観が入っていると思われるが、何よりの問題は、わざわざ県外で、自分のところの知事の罵詈雑言を言わなければならないという、議会、知事、住民、全にとっての悲劇である。
 ただ、私は、改革派知事の中でも、長野県と高知県が特殊なのではないかと思う。鳥取県議会議員から、こういう知事批判は聞いたことがない。


 その後、京都府議会議員の方は、(資料5)に詳しい。政務調査室に、議会が独自に弁護士を顧問として契約する、また、出張議会を行うというのは、特筆すべき取組みである。

 その後、フロアとのやり取り。私も問おうと思った内容なのだが、群馬県議会議員から「請願・陳情」の審査のあり方について、地方議会の与野党での扱いの違いについて発言があった。しかし、コーディネータが理解不足で、うやむやに流してしまった。住民側から議会にして頂くアプローチとして大変に重要な問題であり、党議拘束の問題も含めて、私は、地方議会の最大課題の一つであると思う。
 他に、本当に討論するTV討論会の福島県、女性知事の北海道、国会議員である名古屋「市長」候補が議員定数半分、給料半分という公約を謳う愛知県からも報告があった。


 以下、私の思いをまとめる。

 地方分権一括法施行後、如実に表れてきたのは、似非の改革派知事と称する知事の直接民主制的ポピュリズムに乗っかった暴走行為である。
 おそらく、知事のすることに間違いはないと、闇雲に信じる「お上意識」が、日本人の中に芽生え始め、民主主義が大きく揺らぎ始めていることに、気づかないのである。

 その中で、議会や議員は、いわば、行政の執行に際して、七面倒臭いハードルの一つに過ぎず、時には、地方自治体の首長の中には、仮想敵として、議会を議員を、時には、国を血祭りに上げることで、自らの正当性を誇示しようとする輩まで顕われる。民衆の敵は、議会である、と。
 独裁者は、時には羊の顔をして、時には、大衆的な人気者として現れてくる。時には、猫なで声で、あるいは恫喝を持って、彼らは、市民に迫る。あろうことか、馬鹿な議会や議員は、それを歓呼の声で迎える。いかに自分が、彼と親しいかを謳い文句に、独裁者に媚びへつらい。
 あるいは、王様の下の特権階級の貴族院のように彼らは振る舞う。

 今起ころうとしているのは、憲法制定の契機となった行政国家現象の地方版である。おそらく、このままでは、審議会や委員会で民意を聞いたとして、非常に独善的な行政執行が、成されることであろう。

 日本人は、「お上」に支配されたいのではないか。私達の思いを聞き入れて下さってありがとうございます、と。そして、「お上」に逆らってまで自らが、立とうとはしない。
 こうして誰も彼(「現代のお上」)を止めることはできなくなるのである。
 蓋を開けてみれば、民意と懸け離れた行政執行が行われているかもしれないのである。

 これで良いのか?
 二元代表制下においては、大統領である地方自治体の首長を選ぶのとは違う民意で、複数の議員が選ばれる。
 そして、議会は、議決機関である。民意の代表として議会が決めるのである。議決されたことを行う執行者とは、違うのである。
 そして、はっきりしているのは、民意は、ひとつではないということである。ゆえに、複数の人間からなる議会があるである。少なくとも、一人の人間が、民意の全てを代表はできはしない。議会は、様々な意見をぶつけ合い、議論の末に、より多数のより幸福の道を探すのであり、そこに、議会の正当性の根拠がある。
 今望まれるのは、議会の復権である。

 議会の議論を経ることは、あるいは迂遠の道かもしれない。
 しかし、その過程こそが、民主主義の実践である。議論を経ずに、一人の人間の判断に委ねることが、仮に早く結果が出たとしても、長い目で見れば、多くの不利益になることもある。

 とはいうものの、現状の議会に、優秀な首長や職員に勝つだけの能力があるかと言えば、甚だ疑問である。悪いのは、自ら変わらないのは、議会であり議員である。
 執行部がやること以上をやらずして、なぜ、執行部をチェックができようか。


 なお、当日夜は、出席議員による懇談会もあり、主に旧知の神奈川県議会議員や兵庫県議会議員や広島県議会議員他と旧交を暖め、また、議論を交わしたため宿泊した。

 翌日は、午後からの文教委員会出席はもちろん、午前11時からの岡山空港での青年大会壮行式に、文教委員長として出席したため、それに合わせて帰岡したことを付記する。

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