2000年12月28日(水)
【長文 20世紀の終わりに 民主的コントロール】

 昨日は、多少とも加熱しておりましたが、今日議員仲間と話していると、結局いわゆる審議会行政の原因は、議会の機能不全ではないか、という結論におよびました。特に、特別委員会です。

 議員2年目ですから、そういうものかと漠然と思っていましたが、特別委員会の編成が、はたしてこれでいいのかと今は、考えています。
 議員は、常任委員会(私は、文教委員会)と特別委員会(同広域交通・物流対策委員会)に、所属しますが、常任委員会の編成は、まずこんなものだと思います。
 すなわち、総務、生活環境保険福祉、商工労働警察、農林水産、土木、文教の6委員会です。これは、いうまでもなく各部局に対応しています。

 一方、特別委員会は、議会運営、決算、都市問題・国体等、広域交通・物流対策、地域整備、公社事業の6委員会です。結局、テーマ毎に常任委員会を編成し直しただけで、屋上屋の議論をしている気がしないでもありません。 実は、付託事件(その35参照)にしばられて、全く議論が広がりません。

 時代に即応し、かつマトリックス的に対応しなくてはいけない課題、例えばIT関連、少子・高齢化、青少年問題、事業評価・見直し、観光政策、男女共同参画社会、市町村合併等々こそ、特別委員会で論じるべき課題だと思います。
 例えば、外部から当事者や講師を招き、話を聞くのもいいでしょう。議会が、議員が、行政よりも機敏に、機動的に動かなくては、なにしとんならです。

 実は、議会が執行部に、いいように手足をもがれて、お釈迦様の手のひらで、躍らされているのではないか。一言で言えば、議員は「なめられている」のではないかと思いますす。
 それもしごく当然です。まず議会が、生まれ変わらないといけません。

 こういった結果が、議会軽視の審議会行政を生みます。事業評価は、公開した議員の委員会で、堂々と論じれば良いのです。それを受けて、執行部が方針を決めるのが、筋でしょう。
 多分、今まではそれができなかったのです。


 昨秋発行の後援会報「Our Revolution」の創刊号に書いた一文を引用します。昨夏、日米青年政治指導者交流プログラムに参加したのを受けた文章です。
 私は、地方政治こそ、民主主義(民主的コントロール)の基本の実践の場だと思います。

『 ところで、アメリカの見聞の全てが、まともに日本と比較できるわけではない。
 所詮は、異文化の国である。しかしながら、少なくとも地方政治レベルにおいては、その違いはかなり示唆に富んでいる。
 特に、日米ともに地方では首長制(大統領制)を採用しており、本質的に議院内閣制とは別の政治形態である。にもかかわらず、日米の地方議会の権能に圧倒的な差があることは、充分驚愕に値する。
 思うに、日本の地方政治においては、中央政府の議院内閣制(内閣は国民ではなく、国会に責任を負う)の影響をまともに受け、首長制における議会の役割、あるいは民主的コントロールのかけ方を曲解しているフシが、ある。
 さもないと本来対峙すべき行政長・執行部に対して、民意を代表している議員が‘質問させて頂く‘形式になろうはずがない。そもそも法治国家において、行政を執行するにあたり法的根拠を与える機関はどこなのか。
 地方議会は、行政の執行のチェック機関にすぎないのか、疑問が残る。
 これは、民主主義の日本的変容として看過できるほどかわいらしい問題ではない。(1999年8月記)』

 是非、皆さん民主主義の基本に立ち返っていただきたいと思います。執行部は、執行機関ですが、あくまで、公務員試験を受かられたことで、我々県民・市民が、権限を与えたわけではありません。すなわち、彼らを我々は選んでいないのです。簡単に言えば、「偉そうにされるおぼえはない」のです。
 民主的コントロール(具体的には選挙)の及ばないところに、権限はありません。我々が、自分で「選択」するのです。権限のありかも。
 ゆえに、アメリカは、とことん選挙。郵便局長でも、警察署長でも、なんでもかんでも選挙で選ぶのです。

 日本人は、良くも悪くも江戸時代の「お上意識」から、抜け出せません。困ったらお上が助けてくれる、そう思っているうちは、自己責任に基づいた自立した人間による成熟した民主主義社会は、いつまでも生まれません。
 すなわち、いつまでも、不正や不公正が、はびこります。

 ともかく、まずは、議会が、まずは、特別委員会が変わらなければ。新世紀の地方政治が、真の民主主義に基づいたものにするために。
 議会と執行部は正々堂々と対峙する、それが大統領制下における真の政治、政策形成の姿です。

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