2009年2月6日(金) 【『しあわせについて』】

 全体的に調子はよろしくないのですが、春のような、あたたかい日でした。

 本日は、午後から、「第27回北方領土返還要求岡山県民大会」、夕刻からは、自民党青年部局主催で、「青年地方議員及び県連青年部青年局役員・幹事研修交流会」が開催されました。

 いろいろと思うところもありましたが、児童虐待について、文章を書かねばならなかったので、仕事をしながら哲学しています。
 『しあわせについて』
  http://www.youtube.com/watch?v=qjwC8QJXd40


 もう30年前になりますが、我が家の代々の家業を自主廃業した後に、母が選んだ仕事は、「無認可保育園」と言われる、今で言う昼夜保育園(託児所)でした。当時は、「ベビーホテル」と呼ばれ、しばしば新聞紙上を賑わすような社会問題となっていましたので、思春期のど真ん中にいた私としては、非常に思うところがありました。

 一方で、深夜まで何十人もいた子ども達の姿に、人間社会の難しさや、社会の矛盾を自分なりに感じ取っていて、それをなんとか変えたいと思ったのが、今思えば、政治の原点だったのだと思います。

 世の中は、「幸せの総量」が決まっていて、誰かが幸せなら、誰かが不幸になる、そんなゼロサムゲームなんじゃないか、弱い立場の人間が、益々弱くなっていくような、あるいは、社会の贖罪を最も弱い立場の子ども達が、一身に背負うことになる・・・・けれど、そうした悪循環を断ち切りたい、そう思うようになった、その思いは、今も変わりません。

 あの頃確かに、いたいけに親を待ち続ける子ども達のあどけない姿があり、しばしば問題は起きましたが、どうあれ夜中まで働いている親達が、子ども達のために、懸命にひたむきに生きている姿があり、そこには、「愛」がある、そう信じていたからこそ、私は、そのように感じたのです。


 ただ、今となっては、もちろん、暴力では何一つ解決しない、しかし、おセンチな「愛」という言葉が、こうした矛盾を解消して、子ども達を救ってくれる事を願うけれども、どうもそのように世の中は出来ていないらしい、だから、法律による強制力を持ってしか、政治しか、世の中を変えられない、政治が助け船を出す以外無いんだ・・・・・そのように政治に対して思うには、いささか、その政治自体が頼りないように思えてなりません。
 否、むしろ、政治が悪循環を作り出しているようにすら感じます。

 なによりも、母が託児所を辞める原因が、体力的なこと以上に、耐えられない親や子ども達の変化であったこと・・・理解を越えるほど、どうも親子の形が、実際は、なかなかそうはならないけれども、そうあるべきだと誰もが感じていた家庭の姿が、もう根本的に変わってきているようです。
 いったい、どうなってしまたんだろう?親が親たるゆえんも、家庭が家庭たるゆえんもない・・。いつのまにか、あるはずの「愛」がなくなっているのです。

 加えて、背景にあるのか、環境が萌芽させるのか、障害の影に対して、為す術もないままに立ち尽くしてるような感さえあります。
 今まさに、あの悪循環、負の連鎖は、もはや暴力や貧困の、終わらないスパイラルに陥っているようにすら感じます。


 しかし、だからこそ敢えて、おセンチであろうとも、「愛」しかない、と思うのです。いつも一人一人が、誰かを思い遣る優しさや思いやりの積み重ねがこそ「社会」である、そういう社会にして行くのは、強制力を伴ったり、政治の力ではありません。

 人は人によって傷つき苦しめられますが、人は人によってしか、癒されず、救われないのだ、と思います。そして、幸せを奪い合うゼロサムゲームではなく、「幸せの総量」を皆で押し上げていく以外、人間社会のあらゆる問題は解決しない、そう感じています。

 問答のようですが、例えば、児童虐待を止めるためには、結局は、一人一人が変わっていくしかないのだと思います。
 虐待の当事者だけの問題ではないんだ、そのことを強く感じます。

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