2004年2月6日(金) 【北方領土返還を!!】

 本日、独立行政法人北方領土問題対策協議会、もっと言えば、内閣府・外務省、要するに、国の肝いりで、岡山県北方領土返還要求運動県民会議の主催の「第22回北方領土返還要求岡山県民大会」が、開催されました。


 昭和56年に、2月7日が、「北方領土の日」と定められたわけですが、その理由は、択捉島では、高田屋嘉兵衛が、いわゆるアイヌに、シャケ漁を教え、日本と交易があり、ウルップ島では、カムチャッカ半島から、毛皮用のラッコ獲りに、ロシア側から来ていたことから、両島の間を国境にした(樺太は、混在の地)「日魯通好条約」が、平和裏に、1855年(安政元年)2月7日に、下田市で結ばれたことにちなんだものだそうです。

 そもそも、本当は誰の、あるいは、どの民族の固有の領土なのか、というと、難しいですが、どの国の領土か、というと、こういうことになります。


 昨年、小泉ープーチン首脳会談が、2度にわたり行われ、1月には、平和条約締結の重要性を確認した共同声明が出され、この3月の大統領選挙で圧倒的な勝利を持って再選されるであろうプーチン大統領は、領土返還とは言わないが、問題解決に、並々ならぬ思いはあるようです。

 これも、前エリツィン大統領が、領土問題が「ある」ことを認めたから動き出したことです。


 北方領土問題の経緯は、こういうことです。

 1875年(明治8年)の「千島樺太交換条約」、日露戦争の後の1905年(明治38年)の「ポーツマス条約」を通しても、さらには、1951年(昭和26年)の「サン・フランシスコ講和条約」でも、歯舞群島、色丹、国後、択捉の各島は、日本固有の領土という大前提で、わが国は、放棄もしなければ、交渉の対象すらにも挙げていません。

 1945年(昭和20年)8月9日、1941年に署名された「日ソ中立条約」を無視して対日参戦、しかも、ソ連軍は、8月15日終戦後の8月18日から千島列島への攻撃を開始し、9月5日までに、わが国の北方領土まで占領しました。

 多くの島民は、そのまま抑留され、昭和22年から24年にかけて、引き揚げさせられました。

 つまり、第二次大戦「後」のソ連軍の不法占拠以降、我が国固有の領土が不法占拠され続けている、それが、北方領土問題です。


 北方領土には、終戦まで、3124世帯、17291人の日本人が住んでいたとのことでありますが、現在は、択捉島に、8000人、国後島に4200人、色丹島に、2300人のスラブ系、ウクライナ系、韓国系等のロシア人が、暮らしているとのことです。

 そして、平成3年からは、いわゆるビザなし交流も始まっていて、12年間で、延べ1万人以上の相互交流が行われているそうですが、岡山からは、6人ということです。

 この間に、「日露戦争の際に盗られた領地を取り返しただけ」という四島在住のロシア人の間違った認識は、「政府が解決すべき問題」という具合いに変わってきているそうです。
 また、返還後も、彼らとは、共存の道を模索しなくてはけません。


 私も、学生時代も含めて、北方領土を「見た」のは、2回しかありませんし、岡山にいると、確かに、ピンと来ない感じというのがあります。

 ただ、世界地図を180度回してみると、日本列島が、大陸を覆う形になり、沖縄・台湾まで、繋がっているような形であり、経済水域もさることながら、軍事戦略上も、極めて重要な位置というのが分かります。

 昨秋、モスクワやサンクトペテルブルグを訪ねて、民間レベルでの交流が極めて大切であると、ロシアに対しては、印象がかなり変わりましたものの、満州とは、事情も違うのですから、我々も北方領土問題の本質を理解し、政府レベルでは、粘り強く、堂々と返還交渉を続けて頂きたいものです。


 さらに、尖閣諸島、なにより、竹島も問題ですが、相手が、中国や韓国になると途端に強くは言えない実態があります。
 少なくとも、中四国州だの、県合併を言うなら、竹島の問題は、避けて通ることができない話です。
 一衣帯水の国だからこそ、どこかで、けりはつけないといけない話です。

Copyright (c) 2004 SHINJI SATO Inc. All rights reserved.satoshin.jp