2002年6月28日(金) 【岡山大空襲】

 7月より、運休の日本エアシステムの岡山ー仙台線が、10月1日から運航再会(4月以降未定)。従来通り、高松空港との隔日運航です。
 また、日航は、10月1日から岡山ー東京線を一便増設(夕刻)。ダブルトラックの東京便は、ANA6便、JAL4便の10便体制になります。


 さて、明日は、岡山大空襲の日です。岡山市の戦没者追悼式をはじめ、この日にあわせて、デビットホール、総合福祉会館、石山公園で、様々な団体による「平和」を考える催しが行われます。

 実は、過去2年の「こころ」を見ると、6月29日は、岡山におらず、この日について言及すらしていないという情けない事実が判明致しました。
 おそらく、総合的な学習の時間の本格実施もあり、今の小・中学校の生徒は、かえって、この日の意味合いを認識しているかもしれせん。


 さて、岡山大空襲は、57年前、太平洋戦争敗戦が濃厚になった昭和20年6月29日の午前2時40分頃から始まりました。
 様々な人為的なミスが重なり、空襲警報が、発令されなかったため、被害が拡大したそうです。

 B29約70機は、旭川河口方面から北西に向けて進入。市の中心部を旋回しながら、約2時間に渡る無差別空襲。焼夷弾の雨を降らし、北西に消え、猛火に包まれた都心部は壊滅しました。

 死者は、1737人、収容負傷者は、6026人にも及び、当時の岡山市の人口は、約164000人ですから、市民の100人にひとり強が、亡くなったことになります。
 焼夷弾の直接の死傷者に加え、私の曾祖母もそうですが、防空壕や地下室での窒息死も多かったと言います。

 市民の82%の13万1600人が被災。当時の市域の66%に当たる260万uが焼失。家屋焼失25196戸。北海道から九州・沖縄まで、全国の被災都市のうち、8番目に大きい被災だったそうです。

 ミッションスクールがある奉還町側は、敢えて攻撃がなかったと言いますが、定かではありません。



 これほどの事が、誰かが語り継がねば、本当に風化してしまう、それではいけません。

Copyright (c) 2002 SHINJI SATO Inc. All rights reserved.satoshin.jp