2002年9月21日(土) 【衣更えの如く】

 NHK「さくら」をBSで見ている私は、昨日、昨日・今日の分まで、見てました。桂木先生が、さくらを「お前」と言うのが、問題になっているそうな。

 かなり連日お見苦しいと思いますが、ここは、議員である私にとっての変わり目で、苦悩している状態であります。多分、それは、全国の地方議員が、共通して試行錯誤している道であり、私も自分が、どう脱するか、己に期待し、楽しんでいる面もあります。
 個人的な悩みである以上に、地方政治に、もっと大切な意味を持っていると信じています。議員として、議員の立場で、なにを考えているのか、今、お伝えすることも。


 昨日夜、議員のある集まりで、ここ数日間、私が勝手に騒いでいる件で、件の議員と、1期生議員として、議員発議をして、ともかく自分達の力で、条例を通すよう動いてみようという、話になりました。

 私が、「岡山県国際貢献条例」を起草し、彼は、「岡山県日本の文化・伝統を守る条例」を起草する(いずれも仮称)。おそらく精神条例の域は出ないと思いますが、自民党の1期生で議員発議し、ともかく2本通す。目標は、通すことです。内容は、もちろん重要ですが。
 まずは、通す、そして、それを、地方議員が、これから、どんどん条例を発議する時代のスタートにしたいのです。


 その意図するところはなんなのか。

 私は、地方議員の役割を極めて単純にこう説明してきました。
 「議会は、岡山県株式会社の株主総会で、代表取締役社長の知事以下取締役である執行部に対して、会社運営のあり方について、株主たる市民・県民の皆様の半代理として、株主代表訴訟の如く、提言・チェックする」のです、と。
 一方で、一般的には「議会と執行部は、車の両輪です。」という言い方をされます。

 今回は、議員の発言に対して、知事から、県の施策に対して、「冷水をかけられた」という表現がされたわけです。多分、悪意は、全くなく、本来問題にすべきことではないのかもしれません。敢えて言えば、この悪意なき発言が、私にこれだけ考えさせてくださる契機を下さった、皮肉でもなんでもなく、そのことに感謝したいぐらいです。
 繰り返しますが、県政批判をしているのではなく、むしろ、議会批判をしているのです。

 私にとって、どうしても割り切られないものは、ジェンダーについて、ではなく、むしろ、なにか、もっと根本的なこと、これを言われたら、議員は、お終いだ、けれども、なぜ、1万人の代表が、お終いになるのかな、なにか変だな、という感じです。


 根本的なことは、知事以下執行部は、議会の議決したものについて、執行する機関であるということです。予算提案権は、知事サイドにあっても、議決するのは民意の代表たる議会です。
 行政権の乱用に対して、民主的なコントロールでしばりをかける(法の支配を及ぼす)のが、議会制民主主義の基本です。本来、鉛筆一本たりとて、議会の議決がなければ、法的には、買えないはずです。

 にもかかわらず、議員は、公務員試験を通られた「お上」に対して、間に入っておねだりすることで、適正な行政の執行をかえって阻害したりしている、むしろ、円滑な行政の執行に対しての阻害要因に成り下がっている、と評価されているわけです。(そんなつもりは、ない!!)


 いわんや、大統領制下の地方政治においては、直接選挙で選ばれる首長の実質的権限は、絶大なるものがあり、多様な有権者の分散された民意よりも、一本化された民意の方が、強くなります。
 普通は、逆らいたいとは思いません。

 そもそも、議会は、自ら予算は作ることができない上に、国から降りてきた作らなくてはいけない条例や、料金改定や施設整備のための条例、人事案件を承認し、執行部の作った選挙を経ていないが民意に基づいたとされる何とかプランや何とか計画を示されて、なんとなく、そうかな、と思い、文句を言わないのが、与党で、文句を言うのが、野党になり、ともかく、穏便に事を運ぼうと「車の両輪」で、進んでいきます。

 そして、議員は、有権者の皆様に、行政の考える方向性、執行部のご意向を示し、愛想をして、生活の安定確保のため、選挙で勝つためにあれこれと腐心し、ときおり、行政に意向をちらつかせて、すごいなぁと感心されたら、自分は偉いんかな、と思ったりしてしまう・・・無茶苦茶な書き方だな、こりゃ。

 そして、議員は、立法機関なのに、自らの手では、一本の条例も作ることをせず、政務調査室の優秀な人材を、視察調整に使ってしまい、当然、政策秘書もつかない中で、議員の評価は、どれだけ細々としたお世話をしたか、売れない芸能人まがいに、いかに顔を見せるか、人気があるか、で、判断されるようになってしまう、そうだとしたら、これは、もうお互いの悲劇、時間とお金の浪費です。

 もっとも、議員の出番は、行政の執行を曲げる時、それが、力だ、というのは、そうなのです。要は、その曲げ方でしょう。


 そして、市町村合併、道州制、行政組織がどう変わろうとも、やはり、一本の条例も作ることができない議員がいるのならば、行政が変わっても、議会は、未来永劫変わらない、議員が騒いでみても、議員の質が、変わるわけではないのです。



 当然、私は、一般質問は、続けさせて頂きたいと思います。しかし、一番の願いは、執行させる法を議会の側から作ることです。

 国がどうである、前例がどうである、他県がどうである、そんなのは、関係ねーや。岡山県議会が、岡山県、岡山県民のために、これを決めたのだ、執行せよ、なぜ執行しない、それなら不信任だ、解散だ、訴訟だ、というぐらいの勢いがないと、行政が、なによりも、議会が、変わりません。
 行政や議会の首をみずから思い切り締め上げれば良いのです。

 地方分権の生き残りをかけた時代に、行政に変われと叫ぶ前に、まず、議会が、生き残り策を提示せよ、それを行政に執行させろ、それが、あってはじめての民意、それがあってはじめての議会、それがあってはじめての議員です。

 そして、議会の議論が起き、本来の政党の意味があり、派閥や領袖と全く違う議会の動きが生まれ、党が、議会が、岡山県が活性化する。それが、クーデターでも、反逆でもない、王道だと思います。

 そして、選挙で選ぶなら、どんな条例を作ったのか、法案に対して、どういう投票行動をとったのか、それが、岡山県政にどう活きたのか、それが、判断基準にならないといけません。

 個人的には、議員は、本当に優秀な方が多いですし、条例を作ろうというのは、当然の動きです。また、若手は、それをする義務があるとすら思います。


 ともあれ、その全てのスタートは、一本の条例です。議員発議で、岡山県議会が、ともかく一本、関係各位との協議の上で、自ら文言から起草し、政調に法的に整合させ、議会制民主主義の多数決をもって、1本を通過させる。そのことが、肝要です。

 もはや、執行部に冷水は、浴びせません。かけるなら、熱湯です。

 しかし、それが、健全な姿、岡山県、岡山県民にとっては、もっとも良い形ではないでしょうか。すくなくとも、いくつかの議連など、どんどん条例にすべきだし、自民案、民主案、公明案、共産案で、どんどん遣り合えば、良いと私は思います。
 行政も、党も、県民のための喧嘩なら、勝手に死ぬまでやれば良いのです。様々な形で、民意が通っていくのなら、その道が、増えるのなら。


 ともかく魁の一本、今一番欲しいのは、この手で作る1本の条例です。そこから、いろんなことが、動き出すはずです。

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