2004年9月18日(土)【宝石箱としての臓器移植】

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 岡山で開催されている「第40回日本移植学会総会」のうち、市民公開フォーラム「生かせ、臓器提供の尊い意思」に出席させて頂きました。
 それにしても、河野太郎衆議院議員ご指摘のように、1997年の臓器移植法施行後、7年が経ち、改正を考える際の一番の問題は、日本において、脳死の議論がまともに行われてこなかったことに、脳死移植が進まない原因があるのかもしれません。
 極めて重要な移植ですが、越えていくべき壁も多くあります。
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 岡山で開催されている「第40回日本移植学会総会」のうち、市民公開フォーラム「生かせ、臓器提供の尊い意思」に出席させて頂きました。

 特に、自らが、河野洋平衆議院議長の生体肝移植のドナーであり、人気メルマガ「ごまめの歯ぎしり」の発行者である河野太郎衆議院議員見たさというのもありました。
 しかし、私自身、臓器提供意思表示カードを持ち歩いてはいません。非常に認識が薄いと白状せねばなりません。


 父も、5年間人工透析を受けて亡くなったわけですが、どなたかが渡航して移植する費用を集める時には、認識があるものの、今一つ、臓器移植が身近な問題と言えない中、会場入り口で、親子間で、自らがドナーとなり、生体肝移植をした同級生に、二十数年ぶりに会い、手術時の写真を見せてもらい、話を聞くにつけ、非常に近い話だなと、まずは思いました。

 しかも、今回のフォーラムは、脳死ドナーの遺族、脳死心臓移植を受けたレシピエント、生体肺移植を受けたレシピエント、患者支援グループの方々の生の声に加えて、河野太郎議員が、臓器移植法改正について述べられるというもので、非常に聞きごたえがあり、考えさせられる内容のものでした。


 そもそも、植物状態と脳死は違うという漠然とした認識はあるのですが、生体移植、脳死移植、脳死後の心停止移植では、早い話が、移植できる臓器が違う、ということも、明確に理解しておりませんでした。
 そして、基本的な流れとして、脳死移植を進める方向なのだとは理解できました。
 ただ、後述のように問題があります。


 20歳代で亡くなったドナーの遺族の方は、意思表示カードを持っていた娘さんの遺志を受けとめ、悲しみを越えた強い誇りを持ちながら、臓器ではなく、彼女の7つの「宝石箱」が、輝いているという表現をされました。

 そして、彼女がドナーとなったわけではないですが、レシピエントの方が、元気に普通の生活をされている姿を見て、さらにその思いを強くされているようでした


 一方で、レシピエントの方は、感謝に加えて、自分が、移植に値する人間なのか、まわりに迷惑をかけているのではないか、という、肉体的なものに加えて、精神的な負担が、かなり重い事を言われていました。

 特に、生体移植の場合、家族への負担が大きいわけですが、原則が、脳死移植であるならば、例えば、家族がドナーにならなかった場合に、責めに苦しむことが、軽減されるのかもしれません。

 また、生体移植のドナーの安全性が言われていましたが、生体肝移植のドナーの半数に、後遺症が出るという発表もなされたようです。


 自らの子供を移植を受ける前に亡くして、患者支援グループで活動されている方は、家族と社会と医療を結ぶことに加え、募金による支援がしたいわけではなく、「移植のできる日本」にしたいと、強く言われました。

 ご案内の通り、現行臓器移植法では、日本において、15歳未満からの移植はできず、ゆえに、脳死移植のためには、子ども達は、海外渡航をしなくてはいけない事実があります。
 この15歳未満というのは、民法の遺言の規定の準用によるものだそうです。


 自らが、ドナーである河野議員の改正法のポイントは、臓器提供意思表示カードに、意思表示がされていれば、当然それを尊重するが、意思表示無き場合は、家族に忖度できる、つまり、家族が決められるというものです。

 現在も、心臓停止後の腎臓と角膜の提供は、意思表示が無くても、家族の承諾のみで行うことができますが、あの人だったらきっとこうするだろう、ということで、生前の本人の意思表示が無くとも、家族が、臓器提供を決めれるということです。
 すなわち、15歳未満でも、親の承諾で、脳死移植ができることになります。


 それにしても、河野議員ご指摘のように、1997年の臓器移植法施行後、7年が経ち、改正を考える際の一番の問題は、日本において、脳死の議論がまともに行われてこなかったことにあるのかもしれません。
 要は、何を持って、人の死とするのか。

 少なくとも、医学的な死は、法律で定めるべきでなく、医者が決めるものだと言われれば、その通りですが、いわゆる日本の宗教観がそれを許さないのではないか。

 多分、私も、心臓が動いていて、体も暖かいのに、死んでいる、とは思えないでしょう。父の臨終に接して思うに、それを認めるのは、至難の技のように思います。取り乱しているような場面で、冷静に考えられるのか。

 この部分、脳死は、不可逆的な死ですという、コンセンサスは確かにできていません。


 また、学校等の教育現場で、「命の尊さ」の話として伝えるべきだというご指摘も、ごもっともですが、一歩間違えると、人間は、パーツでできているような唯物史観的な話にも、なりかねないのではないか。

 敢えて言えば、人間の本質は魂の部分であって、体を損なっても、魂は大丈夫だよ、という宗教観でもないと、根本にある輪廻転生や、この世とあの世は裏腹で繋がっていると考えることを思うと、苦しいものがあります。
 特に、私は、「黄泉がえり」や「せか中」等々に、日本人の死生観を感じます。

 あるいは、意思表示カードを配って、反対の意思でも良いから、書きなさいよ、と、誰かがどこかで言うというのも少し違う気がします。


 一方で、脳死は、本当は死ではないけれど、臓器移植するために、作った概念ではないですか?という問いには、かなり丁寧に答えていく必要があると思います。

 意思表示カードに記入したら、すぐに役に立ちそうで嫌だな、という感じをどう拭うのか。これは意外に大きいですね。


 突き詰めれば、私も、脳死移植で、こんなに元気です!!という人が、たくさんいて、それって普通だよね。という状況ができること。
 議員は、全員意思表示し、率先して臓器移植せよとは、マイケル・ムーア?

 そして、実は、データによると、半数の人は、死んだ後に臓器移植は、しても良いのではないかと考えていますが、なにしろ、皆、死んだことが無いし、状況がわからない(状況がわからないから死んだのだ、だから怖がることはないのだ、とは、「死の壁」。)ので、躊躇しています。
 役に立ちたいな、役に立つだろうなという気持ちは、誰もがあるでしょう。

 ましてや、今日のお話を聞けば、命を繋ぐ、移植の重要性は、疑う余地はありません。なにより、誰がいつ、レシピエントの側になるかは、わからないのです。


 意思表示カードには、まだ私も書ききれません。
 正直に書いて、改正案ではないですが、遺族が決めてくれ、死因や、損傷状態にもよるからな、という感じでしょうか。
 皆様は、如何でしょう?

 ただはっきりしているのは、我が子に、もしものことがあるなら、生体移植はするだろうが、子供に逆は求めない、ということでしょうか。

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