2005年3月15日(火) 【「家族」と「世界平和」】

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 本日は、早朝から社団法人実践倫理宏正会広島地区支部設立50周年記念式。6000人規模の会で、藤田雄山知事や、亀井、中川、河井衆議院議員も、来賓でお越しになられました。
 家庭教育に、政治が介入すべきではありませんが、学校教育、社会教育と家庭教育は、三位一体のものであり、「子供の善導は親の倫理実践から」と掲げる、こういった社会教育団体の役割は、非常に重要になっています。「家族」への回帰を叫ぶ時代が来たのだと思います。
 午後には、久しぶりに、広島平和祈念資料館を訪ねました。戦後60年、改めて戦争と平和について考えたい今年です。
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 実は、自民党の知事折衝で、我が文教部会の案を採用し、今回初めて自民党県連が、「倫理立県」という言葉を使いました。記述はしていませんが、家庭教育が教育の原点であるという認識に立ってのことです。

 政治には限界がありますが、少なくとも、現在の行き過ぎた個人主義には歯止めを掛けないといけません。さりとて、いろんな方が、「実は、徴兵制を敷けば良いと思っているんだ。精神面から叩き直さないと日本の若者は、どねんもならん。」と、言われるのを聞き、それで解決するだろうか?という疑問も感じます。


 「個人の勝手でしょ。」逆に、「自分に影響がなければ、好きにさせれば良いではないか」という(ある意味、宗教的裏付けもない)「裸の個人主義」が蔓延する中で、個人と対峙するものは何かという事が、問題になりますが、基本的には、当然に「公」であると思います。
 現行憲法的には、「公共の福祉」でしょう。

 ところで、我も人もの幸せを考えた時に、実は、個人の次に、最初にあるのは、「家族」です。「公」ではないですが、「個」でもありません。

 「個」と「公」の中間にある「家族」が揺らいでいるから、「個」も、「公」も揺らぐのではないでしょうか。だから今、「家族」とは何かを問うべきであるし、それは、家庭教育を考えることでもあります。もちろん、封建社会とは違う「家族」のあり方を模索しないといけないと思いますが、どうあれ、「家族」の構成員は、「家族」を維持する努力が必要です。


 ちなみに、
 「公」を「国家」と捉えて、「家族」は、それを構成する組織であるという捉え方も一部にはあるでしょうが、そうではなく、「家族」の集合体が、「国家」であり、「世界」であるという考え方もあるでしょう。あるいは、「国家」を大きな「家族」であると捉えることもあるかもしれません。

 いずれにせよ、「個人」、「家族」、「国家」の中で、大切だと思うものの順にならべよと言われて、その並べ方が、その人間の価値基準と言えるかもしれません。

 今後は、政治的イデオロギーというよりも、こういった人生観や社会観で、政党すら割れてくるかもしれません。あるいは、資本主義VS共産主義と違った対立軸になるかもしれません。

 そして、どんな「個人」主義の国でさえ、今の日本人ほど、「個人」を最初に持ってこず、「家族」に重きを置くような気がします。少なくとも、日本は、物理的・距離的な意味ではなく、精神的に「家族」解体に、向かっているのではないでしょうか。

 私は、敢えて、「家族」を強く打ち出すべきだと考えています。



 換言すれば、目的が、「個人」の幸せなのか、「家族」の幸せなのか、「国家」としての幸せなのかで、政策も施策も変わります。私個人としては、「家族」の幸せを追求することが、「個人」も、「国家」も幸せになることに繋がるのではないかと考えます。
 その応援を意図的にすべきではないか。

 否、むしろ、「家族」が崩壊すれば、「国家」も崩壊します。また、「家族」を壊すと、「個人」も壊れるのが、しばしばです。
 だからこそ、まずは、「家族」に回帰する努力が必要だと思うのです。


 また、天皇制についても、天皇は、「国家」統合の象徴であると同時に、日本のあるべき「家族」の姿、家庭円満の象徴であって頂きたいと思います。あるいは、神格化されるか否かに関わらず、日本国は、天皇家のもとの「家族」という「国家」であったのではないかな、とも思います。宮家が、もっと近しい。



 いずれにせよ、今、我々は、改めて「家族」とは何なのかを問い直す時期に来ていると思います。

 もちろん、政治的に、「家族」に、規制をかけることはできませんし、かけるべきとも思いません。しかし、「家族」を考えて下さいという契機を作る事は重要だと思います。

 そして、社会教育、学校教育以前に、つまりは、社会がどうの、先生がどうのと言う以前に、家庭教育、すなわち、親がどうであるかが重要であると考えます。



 一方で、広島平和祈念資料館です。

 戦後60年、呉には、4月23日に、実物の10分の1の戦艦大和やゼロ戦などを展示した大和ミュージアムが、オープンし、年末には、戦艦大和の映画も公開されます。
 私も2度訪ねた江田島は、本当に美しく、今も、日本の心が、息づいています。
 為政者ではなく、日本人に、国を思う美しい心があった事に、心から感謝の誠を捧げます。

 一方で、絶対に避けて通る事ができないのは、広島や長崎への原爆投下の歴史的意味について考える事です。なぜ、このこの事については、きちんと語られないのでしょうか。?
 日本人が、根に持つべきことです。考え続けなくてはいけない事です。原爆は、決して天誅ではありません。
 唯一の被爆国日本は、「世界平和」を言い続けなくてはいけません。

 戦後60年、中国や韓国に抗議されるような事態は避けられそうにはありませんが、広島では、約14万人の「非戦闘員」を「予告無し」に殺戮したアメリカの行為は、歴史的な重大な犯罪であることは、明確にすべきであると思います。
 した事も、された事も、事実として認識しなくてはいけません。しかも、できるだけ正確な事実として。

 大切なのは、事実は事実として、認識する事です。そして、評価を誰かや何かに委ねてしまわない事が、重要です。
 その上で、究極の目的は、「世界平和」です。「世界平和」の上に、「国家」も「家族」も「個人」もあるのですから。


 戦後60年、「家族」そして「世界平和」は、これからの日本が、大きく掲げて行くべきものだと私は思います。

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